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2015年07月02日

自由を牛耳る野口晴哉さんの分身

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asylumonline.net


少し前に、

ムーミンのテーマパーク、埼玉・飯能に誕生へ
 THP 2015.06.30

というニュースを読みまして、まあ、ムーミン云々のほうはいいのですが、この飯能(はんのう)という町は比較的近くて、1ヶ月ほど前に行ったばかりでしたので、飯能という単語に反応しました。

何をしに行ったのかというと、この飯能に、とても自由な校風の中学校(と高校)があるというのを聞いたので、学校見学に子どもや奥さんと行ったのです。

制服もなく、校則や試験もないということを聞きました。

子どもはまだ小学4年ですし、そこに行かせるとかそういうことではなく、「本当に自由なんだろうな」ということを知りたかったし、本当に自由なら、そういう光景を子どもに見てもらうのも悪くないかなと。

学校見学の日は、学校説明と授業の見学があるのだそうです。

学校は飯能駅から結構な距離のある山の中にありまして、相当自然に囲まれている場所にありました。

校門を入ると、すでに授業の時間でしょうが、校庭で懸命にスケボーの練習をしている男の子がいました。正門の横では、ダンスの特訓をしている女の子たちもいました。

どうやら、授業に出る出ないも自由のようです。

そして、学校説明のホールに行くと、何十人もの親子たちが集まっていました。

最初、背広を着たきちっとした先生が少しお話をされました。

その先生の後ろに「Tシャツと短パンとビーチサンダル姿のオジサン」が立っています。首からはタオルを巻いています。

「設備の管理人の人かなんかかな」と思っていますと、きちっとした先生が、

「では、次に校長の〇〇からお話させていただきます」

というと、マイクの前に出てきたのは、その短パンのオジサンでした。

そして、短パンとビーチサンダルのオジサンが、

「こんにちは。校長の〇〇です」

と大きな声で挨拶をされました。

私は思わずプッと小さく吹きだしてしまい、「校長先生も自由か」と思いましたが、しかし、私は最前列に座っていたのですが、よく見ますと、この先生、誰かと似ている。

「・・・あ、わかった。野口晴哉さんと似ているんだ」

と気づきました。

格好こそ虫取り少年のような出で立ちですが、顔は野口晴哉さんと酷似しています。

野口晴哉
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野口晴哉bot


そして、その校長先生は「目力」がすごかったのでした。

「ギラギラした目」という表現がありますが、そんな感じでカッと眼が見開いていて、それなのに、口元はいつも笑っている。

その後、授業見学ということになり、中学生のクラスを廊下から見学します。

授業そのものはちゃんとおこなわれていますが、面白かったのは、何人かがイヤホンをつけて授業を受けていたことです。普通に考えれば、音楽を聴いているのでしょうから、音楽を聴きながら授業を受けてもOKということのようです。

あるクラスでは、ひとりの女の子が先生に何も言わずに立ち上がり、教室の後ろに歩いていきました。

「何をするんだ?」と思っていましたら、教室のコンセントでスマートフォンを充電していたようで、そのスマートフォンをガシッとコンセントから外して、自分の席に戻っていました。

「そんなに自由かよ」

と苦笑して見ていましたが、全体として、だらけている印象はなく、何となく活気がある授業風景でした。

この学校では、授業としては、音楽と美術と体育に力を入れているらしく、特に各学年、1年間を使って木から作品を作り出すということをしているということで、作業場では男の子や女の子たちが、丸太を電ノコで切り出したりしていました。

帰り、正門のところで、野口晴哉さん風の校長先生が横切りましたので、「今日はありがとうございました」と挨拶すると、私は最前列にいたので覚えて下さっていたのでしょうが、「あ」というような顔をされまして、それからしばらく校長先生と話をしました。

この校長先生自身もこの学校の卒業生なんだそうです。

説明会も通して、この校長先生の言っていたことで、最も印象的だったのは、うろ覚えですが、

「うちの学校で学べば、親にウソをつく子には絶対になりません。そして、弱い人をいじめるような子になりません」

というような言葉でした。

ただし、学力的なことでは、特に偏差値などは、基本的に重視はしていないということも素直におっしゃっていました。ただし、この校長先生は、専攻が数学で、

「数学においては、単に学ぶのではなく、考えることの重要性を子どもたちに知ってもらいます」

と、バーネット師のようなことも言っていました。

私は学力なんてのはどうでもいい人ですので、そのあたりはどうでもいいのですが、問題は別のところにあって、つまり、この学校は私立ですので、私らのような経済力では結局は行くのは難しそうです。

それでも、あと2年とか経って、子どもがここに行きたいというのであれば、マグロ漁船にでも乗って(ハードだな)頑張ってもいいかなという感じの学校ではありました。

ただし、尋常でないほど自由ですので、好き嫌いはわかれると思います。

たとえば、生徒たちは先生を「〇〇先生」とは呼んでいませんでした。
先生のことを「〇〇さん」と呼んでいました。

校長先生も中学生の生徒から「〇〇さん」と呼ばれていました。

それらを含めて、あまりの自由さに、うちの奥さんは少し引いてました。
私は「こいつらいいなあ」と思いましたが。

それにしても、何かと野口晴哉さんの絡む初夏であります。


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posted by noffy at 18:49 | 雑記

2015年06月22日

人はいつも目覚めていなければならない - ジョン・ライドンのカート・コバーンの自死に対しての強烈な糾弾を見て

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・小さな頃の病気の後遺症で、目に力を入れないと焦点が合わないジョン・ライドン。1980年代から最近までの顔の変遷。 birminghammailzetaboardsgloucestershire echo



パンクの始祖が誰だとかは別にして、世界中にパンクを拡大することに最も貢献したバンドのひとつがセックス・ピストルズであることは認めざるを得ないところだと思います。

1994年に自死したニルヴァーナのカート・コバーンは生前、セックス・ピストルズについて以下のように語っています。



カート・コバーン
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crank-in

ピストルズのアルバムは、俺が聴いたロックのレコードの中でも最高の出来だよ。
全く突然だったし、本当に簡潔なものだった。ピストルズが持っていた全てのハイプは正当なものさ。

あんなに本当のオリジナルなサウンドを俺たちは作り出していない。
俺たちは頑固で妥協はしないかもしれないけど、まあそれだけのことさ。
明らかに変形にすぎないんだ。 


(出典:NEVER MIND THE SEX PISTOLS




さて、このようにカート・コバーンからリスペストされていたピストルズのジョン・ライドンは、カート・コバーンの自死の後、コメントを求められて、カート・コバーンの死について下のように語っています



1994年頃のジョン・ライドン
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YouTube

生きていようが死のうがロクデナシはロクデナシなんだよ。
死ねばすべてが許されるってもんじゃないんだ。

交通事故か何かで不可避的に死んだならまだしも、奴には子供がいたんだぜ、まったく。

これから真っ白な心で世界に対峙し、成長していこうかっていう子供の気持ちにもなってみろってんだ!

なのに自分がもうこの世で生きていく自信が無いから自殺します、だ?
何が病める魂だ。

これほど身勝手で無責任で利己的な男が他にいるかってんだ! ったく。

しかもそういう奴を『自己のアートに殉死した悲劇の英雄』的ロマンティシズム・センチメンタリズムで捉えたがる連中もいるんだから、あきれてものも言えないね俺は。

カート・コバーンなんて自分の家族に対してさえ責任をもてなかったただのヘロイン中毒だったんだぜ。

それのどこが無垢で繊細なんだよ?

そういうものを自虐的美学なんて呼称でグラマライズしたがるのはドラッグ文化の最大の偽善性、白痴性と呼ぶしかないな。


(出典:NEVER MIND THE SEX PISTOLS




多分、カート・コバーンの死に対して、ここまで激しく罵ったミュージシャンは、おそらく、他にはいないと思います。

そして、

> 不可避的に死んだならまだしも、奴には子供がいたんだぜ。これから真っ白な心で世界に対峙し、成長していこうかっていう子供の気持ちにもなってみろってんだ!

という意見は正しいです。

この言葉を知ったのは最近ですが、

「やっぱり、ジョン・ライドンという人は流されないなあ」

と改めて思いました。


1960年代とか 1970年代のロックは、全体として、ドラッグ文化的な色彩が強く、そして、その時代のメジャーな数々のバンド、それはビートルズにしても、レッド・ツェッペリンなどにしても、実際にドラッグにまみれていました。

しかし、1970年代後半に世界を熱狂させたパンクの象徴的存在だったセックス・ピストルズは、途中加入したベーシストを除けば、おそらくは(あくまで、おそらくは)「クリーン」だったと思われます。

セックス・ピストルズには耽溺するのではなく、「いつも目覚めていなければならない理由」もあったようにも思います。

ビストルズの役割は、ライドン自身によりますと、

「俺たちの人生の大部分をサッチャー政権時代が占めており、それに目一杯抵抗することがピストルズの役目であり挑戦だった。自分たちでもそれなりに精一杯やったと思うよ」

と言っています。

興味を持って、ジョン・ライドン - Wikipedia を見てみましたら、ジョン・ライドンも、In Deep の記事に出てきます、13歳の少年、ジェイコブ・バーネットさんと同じく「強制的に学ぶことができなくなった年月」を持っていることがわかりました。

ジョン・ライドン - Wikipedia より

幼いころに髄膜炎を患い、半年近く生死の淵を彷徨い、その後遺症で退院した時は“cat(猫)”の綴りや両親の顔すら忘れている記憶喪失の状態で、それが原因で小学生のころはいじめられっ子であった。

何もかも一からやり直しの状態であったが、母親の熱心な教育のおかげで人並み以上のレベルまで取り戻すことができた。彼はこの病気の過去を「“ロットン”への道を歩み始める第一歩」と語っている。

知らなかったですが、彼の猫背と人をにらみつけるあの「目つき」は、その病気の後遺症だったようです。 Wikipedia には以下のようにあります。

彼の猫背は幼いころのにうった脊髄注射の影響で、睨み付けるような目つきはそうしないと焦点が合わないためであり、髄膜炎の後遺症である。

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GIPHY


少年時代の病気で、ライドンは、何から何まで「いったん頭の中から消えた」ようです。

そして、ジョン・ライドンは、私生活では 30年以上、ひとりの奥さんと暮らしているという、そういう面を持つ人で、カート・コバーンへのあのような「糾弾」を見ていると、子ども好きなのかもしれません。

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▲ 年代不明ながら、少なくともかなり若い時のジョン・ライドン。子どもの観客に歌わせているようです。 davidabbruzzese


いろいろと昔のニュースを探しますと、2010年に、ジョン・ライドンは、継娘を病気で亡くしているというようなことも知りました( Daily Mail )。

まあ、そんなジョン・ライドンですが、今なお、どんどん巨大になっています。

特に体が。

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▲ 2013年7月のコンサートでのジョン・ライドン。Starpulse より。


体の大きな匠という意味で、巨匠という敬称が似合うようになってきているようです。


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posted by noffy at 19:20 | 現世人類としての最期に

2015年04月19日

自分=セルフへの治癒のために必要だった笑いと暴力

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・self23 公演『ゲ・イ・ム』(1994年)の DM


今日(4月19日)は日曜だったのですが、子どもは、おばあちゃんと遊びに行っていて、私も何となくフラフラ感もあり、外出する気にもならず、昨日見た映画『パッチ・アダムス』のことを考えて、 In Deep の記事を書いていましたら、何時間も没頭して書いていたみたいで、異常な長さの記事となってしまいました。

いつもなら、長すぎた記事になった場合は、アップした後に削っていくんですけれど、何と「削って今の長さ」です。つまり、元はもっと長い記事だったのです。

それどころか、それでも飽き足らずに、こちらに書いていたり(笑)。

いや、それにしてもいい映画でした。

これは映画のデキというより、パッチ・アダムスという実在の人物の存在と、それを演じたのがロビン・ウィリアムズさんというのも良かった。この映画、同じロビン・ウィリアムズさん主演のベトナム戦争映画『グッド・モーニング・ベトナム』と、何だかいろいろな部分で似ているんですよ。

グッド・モーニング・ベトナムも、実在のラジオ局のディスクジョッキーのことを描いたもので、それは、「前線の兵士たちに笑いを与える」という話でしたが、パッチ・アダムスは、「病の人々に笑いをもたらす」というものなんですが、ストーリーの構造的にもなぜか似ているんです。

それにしても「笑い」の重要性。

私は、大学を辞めた後に、劇団みたいなのを作りましたが、活動の後年は、お客さんの数も多くなり、メディアで紹介されることも多かったのですけれど、でも、その頃は「劇団を始めた頃の本質が失われていた」ことも事実です。

その頃になると、雑誌などを見て来る人も多く、つまり「演劇とかアートだと構えて来る」お客さんも多かったんです。

でも、 self23 の本質は、

「お笑い暴力見世物団」

が始まりだったのです。

そして、その始まりは実は・・・

「自分を治し癒やすため」

に、その劇団のようなものを始めたといってもいいかもしれないです。

神経症とパニック障害が最もひどい時で、そして、初めて病院に行く前のことで、いよいよ精神的に追いつめられる日が多かったのですけど、そこに「大失恋」なんてのもやってしまったのです。

その時に精神的均衡をさらに崩して、もう気がおしかくなりそうな日々が多くありました。

その頃に私は劇団のようなものを作ろうと思っていたのですが、神経症で弱々しくなっていた自分を、

「笑い」



「暴力」

の渦の中にたたき込もうとしていました。

劇団のようなものも、最期の頃はアート系のように捉えられることも多かったのですが、本質はそこにはありません。私たちは見世物でありつつも、「自分たちに対して誇り高くありたい」という人々でした。

つまり、「誇りを持って笑われる」ということです。

例えば、下は第1回公演、つまり最初の公演を翌年、再演した時のものです。
客席が爆笑の連続であることがわかると思います。

self23 - 天ぷら家族(1987年 / 新宿タイニーアリス)より



私の公演を見に来るような屈折している人が多い人には、「屈折した笑い」が必要で、そして、笑いは誰でも、そして、私自身も治癒していたと思います。

どんな考えや思想を持っている人でも「気持ちよく生きたい」と思っています。

その「気持ちよく生きたい」ということを補助するのが音楽や舞台表現の本質で、他に意味はないと思います。もちろん「自分自身の気持ちよく生きたいという想い」に対してもです。

そして、ひとつの種類の音楽や表現では、多くの人にそれを与えることができないから、数多くの種類の表現がある。

私の劇団のようなものの公演は、日を追うごとにエスカレートして、巨大化していきますが、その中で、笑いは少しずつ失われていきました。

それでも、ずいぶんと私を治癒してくれたと思っています。

活動の活発だった 1980年代の終わりから 1990年代の初めの間は、私は神経的、精神的にはとても安定していました。

あの時点では、「治癒」は成功していたのかもしれません。

そして、今、新しい治癒活動に入ろうとしています。
いや、もう入っています。

今の考えにたどりつくことができたことには感謝しています。

最終的な治癒は「悟る」ことです。

これは簡単にできるわけもなく、長くかかるか、あるいは多分は「できない」と思います。
でも、できなかったら、できないで別にいいのですよ。

「そういう考えを持ったことのある人生だった」

というだけでいいのです。

それだけでも、何と贅沢な人生だったことであることか。
タグ:Self23


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posted by noffy at 18:57 | 23 to 24