2010年05月06日

人類の進化の可能性:大腸菌が獲得する「不死」に見る生き物の本性

風邪のおかげで今まで書こうと思って書いていなかったことを書く気になりました。

微生物の強靱な生命ということについて、もし書ければ続けて書いてみたいと思います。勘違いしていただきたくないので最初に書いておきますが、これは別に「そんな生き物がいてすごーい」という生き物バンザイの世界ではなく、人間自身の今後のサバイバルに関しての話だと考えていただいて結構です。

これは、「遺伝子やDNAといった生命の根幹は生き物同士であまり変わらない」ということが前提としてあります。

私たちは誤った進化論で、「ウイルスのような微生物から私たちのような大きなものに進化した」と教えられてきましたが、それは違うだろうなあと私は考えていますが、しかし、進化論に関しては私感も入る世界なのでここではふれないとして、確実に言えるのは「原核生物といわれる微生物は大変に進化した生き物だ」ということです。多分、進化の最終形(しかも最初の原型でもある)だと思います。そこには他のすべての生き物にはない強い生命力と驚くべきシステムが備わっています。

つまり、今後の本当の進化というのは、たとえば私たち人間でいえば、「少しずつ微生物たちの特性を獲得していくこと」なのだと思います。まだ、私たち人類は微生物の強さをほとんど獲得していません。

そして、もうひとつの前提として、パンスペルミア説があります。
確立された学説ではないでしょうが、私はパンスペルミア説、つまり、宇宙のすべてに生命は広がっていて、地球の生命はすべて微生物として宇宙から降ってきた(あるい現在も降り続けている)という説をグリグリに信奉していて、最初は信奉しているだけだったのですが、どんなデータを調べてみても、これを「裏付けないものはない」です。

しかし、このパンスペルミア説のことも今はいいです。
これはライフワークになるはずですので、どうせ今後も執拗に出てきます。
私の残り少ない人生はこのパンスペルミア説をグリグリの世界の定論にすることを夢見るだけの人生とも言えます。

ともかく、どういう進化論を選択しようとも、「我々人類の祖先は確かに小さな微生物であったであろう」ということはいえそうです。ダーウィン的な進化論から考えても、私の思う「人間の遺伝子は38億年頃前から地球にあった」という考えでもどちらでもいいのです。

ともかく、「微生物が祖先である」と。

ということは、「祖先の特性を獲得することならできるのでないか」と思うわけです。

私たちは全然関係のない生き物の特性を獲得することはできないように思います。たとえば、魚のように水の中で生活したり、鳥のように空を飛んだりは、多分いつまで経ってもできないでしょう。しかし、祖先である微生物の特性を辿り「その特性を人間に合わせるように生かすこと」ならできるかもしれない。

そんなわけで、微生物の持つ強靱さというものは、私たち人間の「将来の進化」と関係することだと思われるということを書きたいと思うのです。

生物同士で大した違わないDNAと事実がこの意見の強みとなります。この場合、遺伝子の数の差や身体の仕組み事態はどうでもいいことで、「基本が同じ」ことがどれだけ生き物において重要なことかという概念があります。

このことは実は科学方面だけを見ているうちはわからなかったのです。

それに気づかされたのは、ごく最近知った、いわゆるオカルトに関わる世界と概念です。
詳しいことは私はいまだに全然わからないですが、適当に抜粋して読む彼らの「未来の人間像」やその「理想型」というものは、シュタイナーとかグルジェフとかから、たとえば、ヒトラーなども言っていたものも含めて、それは「微生物の特性を持つ生き物のこと」を語っているのです。

彼らの時代ではまだ「DNA」という存在は発見されていなかたっはずです。また、細菌学というものも発展していなかったと思います。そんな中で彼らオカルトの大家たちが語っていたことは、少なくとも現在に当てはめると「人間」ではなく、「微生物の特性」だということに私は気づいたのです。

すなわち、

・食
・呼吸

といった基本的な生物の「生存の常識」と思われるものも必要としない微生物さえ実際にこの地球にもいるわけで、すごいところでは、

・死ななくなる

という特性さえ微生物の遺伝子にはプログラムされているのです。

まあ、遺伝子そのものは基本的に死なないものらしく(地球の遺伝子は地球に約38億年存在し続けているらしい)、「死ぬ」という概念は、生き物が肥大し、生物が細胞核レベルなどから身体が組成されるところから始まると思われるます。

バイオマスという言葉があります。
これは Wikipedia によると、

「特定の時点においてある空間に存在する生物の量を、物質の量として表現したもの」

だそうで、つまり、「生き物の量」とでも言えばいいのでしょうか。私たち人類は「細胞核を持った細胞」を持つ真核生物というものの範疇にあって、いわゆる見た目には複雑な生き物です。

一方、細胞核を持たない原核生物という、つまり細菌みたいな生き物の一群が地球にたくさんいます。

上の「バイオマス」という観点から見て、この「細菌 vs 人間」はどうかというと、Wikipedia の「原核生物」という項目にこうあります。

多様な生物種が存在を脅かす現環境下で生き延び、非常に早い増殖を可能にするために無駄を省いたシステムをもつ現生原核生物は、高度に特殊化しており原始的な生物とは大きく異なっていると想像されている。そのバイオマス(生物量)は真核生物の数倍から数十倍に達するとも言われている。


細菌のような生き物たちの生物量は、たとえば私たち人類のような生き物の数十倍あると考えられているわけです。この異常に高度な生き物の特性を「私たち人類はまだ獲得していない」ということになると思います。

なぜ獲得できないか?

ここで私の信じていない「進化論」を説いたダーウィンの「種の起源」の概念がとても参考になるのです。実は、ダーウィンの理論は、

・進化論を語るには片手落ちだけれども、

・種の絶滅を考える上では大変に参考になる


もののようです。
適材適所では生き物は進化しなかったことはある程度は明らかですが、この「適材適所」は実は大事な概念だと思うのです。

これは今後の人類も直面する問題だと思いますので、覚えておきたい気もいたしますが、こういうことです。

「適材適所で進化はしないが、適材適所として適合できない生き物は絶滅する」

ということです。

たとえば、人間でいえば、まあ、今でいえば、たとえば暑くて40度、寒くて氷点下20度だとか、酸素があるとか、水があるとか、そういうような環境で生きていて、このままであれば、そのままずっと大丈夫です。

では、この環境が「暑くて500度、寒くて氷点下200度だとか、酸素がないとか、水もないとか」ということになったとします。

想像だけでもいいのですが、この場合、「適材適所で進化」するかというと、難しい気がします。人間の生きる環境の想像上の能力を越えています。では、「適合できない生き物は絶滅するか」と考えると、「多分絶滅する」という感じがいたします。

つまり、生き物は一般的には「適合できない時には絶滅する」わけです。


さて、ここまでだと何となく、暗い話に見えてきたかもしれませんが、今回書きたかったことは極めて希望的なことなんです。書こうと思っていたことは「ある実験の結果」についてのこととなります。

実験内容はフレッド・ホイル博士の文献にあるもので、博士はそこに特別な感想を添えていたわけではなく、パンスペルミア説の証拠のひとつとして挙げていたのですが、私はここから「並々ならぬ生命の強靱さと機械性」を見いだしたのでした。

実験は、「大腸菌への致死量となる紫外線の放射」です。


実験内容:大腸菌群に「個体数の半数が死滅する量」の紫外線を放射する。

途中経過:半数ずつ次々と死んでいき、原子核の崩壊のように次々と固体は減っていく。たとえば、1万から5000に、5000から2500に、と、あっという間に個体数は激減していく。

ある変化:ところが、個体数が「約1000分の1」になった頃、変化が現れる。個体数が「約1000分の1」になった頃、残った固体全体が何と「死ななくなる」。




・・・ということなのです。

「死ななくなる」というのは言い方が間違っていますが、要するにその時点で「新しいDNAの修復機能を獲得するようだ」ということのようです。これは何度繰り返しても同じらしく、大腸菌は「個体数が約1000分の1になると、突如、それまでの死の原因に対しての耐性がつく」らしいです。

つまり、

・ある時点で死ぬことをやめる機能

という感じなんです。

生き物の仕組みのこの壮絶さ。

まるで機械のプログラムのような仕組みが少なくとも大腸菌にはある。
「何度やっても」ということは全部の固体にある。全部にあるということは遺伝子、あるいはDNA(あるいはそれに類したもの)レベルの問題であるように思われるわけです。

・・・・となると・・・。

DNAの仕組みなんて基本的にほとんど同じはずなんですよ。
私たちも含めた多くの生き物たち同士は。

つまり、

すべての生き物にはこの「1000分の1の個体数の減少で死ななくなるプログラム」が均等に植え付けられているのではないか

と考えます。
そのプログラムが人間においても作動するかどうかの問題というような気はします。

それが「今後、人類が生き残るポイント」だと気づいた次第であります。


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原核生物と真核生物より。ここから言えることは、進化がどういうものであったにせよ、「進歩」という意味での進化は38億年前に地球に出現した真正細菌が頂点で、「そこから大型化=退化」していったと考えられます。退化の意味はつまり「死にやすくなった」と。


なお、「38億年前からひたすら退化した」のなら、なぜ今の私たちのような生物がいるのかという疑問を感じていましたが、前回の記事でいだたいたコメント(ねるさん)のこの部分で何となく理解できました。


人間によって認識される物理的な宇宙が誕生したのは、つい最近のことです。それを観察する科学が人間中心であるのは当然といえば、当然かも知れません。ロジックによって把握する対象として宇宙が存在を開始したのは、ロジックを駆使するようになった人間の大脳の誕生と密接に関わりがあります。人間はそれ以前に存在していた "見えない" ロジックの宇宙を "見える" ロジックとして観察することが出来るようになりました。これは物理的な脳が誕生したおかげです。



そう、脳です。

宇宙の進化の過程で非常に大事だったのが、この「大脳の誕生」だったことがわかります。これは、前回記事で書いた、「世界の存在そのものは、生物に認識されて初めて存在すると思われる」ということとも関係するように思います。

すなわち、「人類の地球への誕生」ということをイベントとするよりは、宇宙史から考えると、「大脳の誕生」ということが大きなイベントだったということかもしれません。

つまり、「死にやすくなり弱体化してしまった大型動物の体質は生物の退化」ではあったけれども、私たちは大脳を獲得したということで、やはり「私たちの世代の生き物の登場は進化だった」と、初めて安心して生きることができるのでありました。

ふう・・・。

なんか一気に書いて、前後途中の文脈がバラバラですみません。


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posted by noffy at 11:20 | 地球と宇宙の生命

2010年04月24日

ホイル博士が夢見た無数の世界

連日の投稿で、慌ただしくてすみません。どうしても資料として書いておきたいものがあったので、書いておきます。

今日は何だか眠くて、寝っ転がって、フレッド・ホイル博士の「生命はどこからきたか」をボーッと読んでいたのですが、その中の一説を読んで、何だか異常に感動してしまい、抜粋しようと思いました。

この「生命はどこからきたか」は日本で1995年に出版されたフレッド・ホイル博士と、その弟子にあたるチャンドラ・ウィクラマンシゲの共著(訳は東京工業大学の大島泰郎元名誉教授)ですが、以前紹介した「生命 (DNA) は宇宙を流れる」よりも過激で、進化論の歴史を述べた後に、進化論を「科学的根拠とデータと数式で完全に否定していく」というような本です。内容的に「生命は宇宙を流れる」よりも専門的なだけに誰にでもわかりやすいとは言い難い部分はあります。

理論につぐ理論、整合性に次ぐ整合性による、新しい「生命理論」を議論の形で進めていくものなので、曖昧な記述はまったくありません。

特に今回抜粋する「第15章 生命の起源」という終章には、曖昧な記述や宗教的な記述など一切出て来ません。有機物や分子やDNAや太陽系や地球の生成の話ばかりの話が続きます。ところが、本編のこの第15章の最後の最後に、唐突にこういう記述が出てきます。全250ページの中のたった1ページ半の記述です。

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▲ 2001年8月22日に、フレッド・ホイル博士の死を伝える 英BBCニュースにあるホイル博士の写真。


「科学は、ユダヤ - キリスト教の世界観によって徹底的に曲げられ貶められてきた」として、続いて、こう書いてこの著作の本編を終えています。

(ここから転載)





-- 「生命はどこからきたか」 第十五章の最終ページより --


 しかしながら現代の科学者はもはやキリスト教の独占状態ではない。われわれは非キリスト教的起源を持つ科学的、技術的文化の急速な出現を日本や東アジア地域に目の当たりにしている。

 これら新しい文化が影響力を持って広がり成長していくとき、何がそうさせるのかと思うだろう。日本では重要な文化的影響力を持つ仏教は寛大で比較的教義に拘束されない。ゴータマ・ブッダは真実を見いだすことの重要性を強調した。彼の弟子に対する教えが墓碑に刻まれている。

「自分に忠実に生きなさい。真実の光をともし続けよ。真実においてのみ拒否しなさい。あなたの隣の誰かのために拒否するのではない。今、この先、生きる人々が知を望むなら偉大な達成が得られるだろう」(「マハパリニッチ・スッタ」 No.16)

 これは現在でも将来有望な若い科学者への良い助言となる。紀元前六世紀に、ブッダの世界観はすでにコペルニクス革命以後に入っていた。彼は宇宙が、各々がわれわれの惑星系と似た数十億の ”小さな宇宙” から成り立っていると記している。ブッダの対話形式になっている古い仏教の教典のなかに無限の宇宙について述べられている。

「無数の太陽、無数の月、・・・、無数のジャムブディパス、無数のアパラゴヤナス、無数のウッタラクラス、無数のブッダビデバス」

 ジャムブディパスとは当時の北インドの人々が知る限りの人の住んでいる地域を表す単語である。この対話から、ブッダが生命と意識(彼はすべての生命に意識があると考えていた)を宇宙的表現 -- 宇宙の構造に全体として結びついていて別々にできないものと捉えていたことは充分に明らかである。

 古代の伝統的仏教は数多くの点でわれわれがこの本で議論した方向へのコペルニクス革命を発展させるのに適した考え方であると思われる。もしそうした考え方が広がれば、少なくとも中世の足かせから解放された科学となるだろう。




(転載ここまで)


ここを読んでいて、なんとなく涙が出て来てしまって、同時に、まあ、多分にホイル博士の東洋に対しての思い違いの部分もあるとはいえ、せっかくホイル博士が「われわれは非キリスト教的起源を持つ科学的、技術的文化の急速な出現を日本や東アジア地域に目の当たりにしている」と博士が言っている、その日本に住んでいる日本人である私たちが、なんと今までユダヤ・キリスト教的な科学的価値観や常識的価値観で縛られて生きてきたことかと。

少なくとも、この本が書かれた1995年の時点で、西洋では、何人かの西洋人たちがすでにそのキリスト教的価値観が苦しくて、このホイル博士のようにもがいていた。その反面、彼らが精神的に目指していた「アジア」は今どうなんだろうと考えます。ホイル博士の理想のように進んできたのだろうか・・・と。そこはどうにも疑わしい。

しかし、最近私のよく取り上げる重大な科学的発見の多くは日本人主導によるものです。代表的なものは、

宇宙の特殊な光から地球上の生命の起源に新知見 (国立天文台が率いる国際研究チーム)
ビッグバン仮説を否定するヒミコの発見 (大内正己氏が率いる国際研究チーム)

などで、これらは今までの宇宙観を変える可能性があります。上のホイル博士の文章の表現を使って書けば、「コペルニクス革命を発展させるのに適した」ものといえます。

もちろん、これらは何かの既成の価値観に反発して生まれたものではもなく、何かを狂信的に信じたものでもなくも淡々と発見されていったものでしょう。この「宇宙発想革命」の材料を発見する機会を日本人を得たことは恐ろしいほどの幸運ではありますけれども、それでの「大変化」など今は(私たちも)期待などはせずにこの後も淡々と研究されていけばいいのかなあと思います。

ユダヤ・キリスト教的な価値観を、私たち日本人は積極的に憎んで否定する必要はないわけで、最近の私のように、「使えるもんなら聖書でも創造論でも全部使えばいい」というような、徹底的な宗教観の欠如をもって望んでも構わない気はしています。

聖典をオモチャにして、ふざけながら前に向かって歩いて行く永遠の子どもでも、それはそれでいいのだと感じます。


この本にある進化についての概念はのちのち書いてみたいと思います。「5億7000万年前(カンブリアの大爆発期)には、すでに人間の遺伝子の組成は地球に存在していて、後にウイルスによる活性化の引き金を引かれて活動を開始するまで(人間になるまで)、5億年以上、じっと地球で待っていた」というような、死ぬほど刺激的で面白い理論です。

この理論だと、我々人類は5億7000万年前には今と同じ(に成長する)遺伝子を持って地球で長く眠っていたということになるのかもしれません。


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posted by noffy at 15:30 | 地球と宇宙の生命

2010年04月13日

進化の仮説(1) - すべての細胞核が持つ元型

先日、出先で一時間ばかり時間をつぶすことになり、その駅の近所にあったブックオフでわりと適当に選んで買った本が、お茶の水女子大理学部の太田次郎先生という粘菌の研究者であったらしい教授の書いた「細胞工場」という本でした。昭和62年発刊で、すでに二十年以上経過しているもので新しいものではないですが、専門家向けではなく、一般人向けに平易に書かれていて、とても勉強になりました。

細胞とか DNA などのことを全然知らない私には、この本の中にいくつも「ほー」と感心させられることが書かれてありましたが、特に、いくつかの記述 -- それは、細胞と細胞核の関係や DNA の構造のもっとも基本的な部分に関しての記述は、最近、私が考えている「統一されたコントロール下にある生命」の問題に関わっていると感じました。

もちろん、私はこのあたりはまだまだ全然勉強不足ですので、その生命の問題という内容自体より、ここでは今後、私が書いてみたい「生命の進化」についてのキーワードを記しておくと、「生命の進化」というのは、

・DNA の塩基配列の外部的刺激による変異

・地上のすべての受精卵への影響

・細胞核にある全生物を通して持つ物質による社会行動コントロール


というあたりになってくるのではないかと。

まあねえ・・・。
こうやって書いていても、自分でもよくわかんない部分はありますし、だいいち、書いて説明などできるのかという部分はあります。「少し整理してからでいいのでは」とも思いますが、でもまあ、いつも整理なんかできないので、「地球の成り立ち」シリーズの中の項目として、少しずつ書ける時に書いてみたいと思います。

しかし、途中はフラついても「どういう結論に辿り着きたいのか」というのは決まっています。
それは、

・宇宙のすべての生物は細胞核が持つ「元型」にコントロールされている

ということです。

この「宇宙の」という点が自分でもひっかかっていたわけですけど、最近の国立天文台の発表の「地球の生命は宇宙から飛散してきた証拠」など、反論の余地のないと思われる証拠が出たこともあり、また様々な科学者たちの観測研究などからも「地球の生命が宇宙から来た」こと自体についてはすでに違和感はないといえそうです。

なお、この国立天文台の発表に関しては、翻訳しようと思っていたのですが、アストロアーツに生命をかたちづくったアミノ酸の謎に迫るというわかりやすい記事が載せられていて、ぜひ読まれてほしいと思います。


そんなわけで、「地球の生命=宇宙すべての生命」というあたりまではまあOKだと思うのですが、それでは、「地球以外の生物と地球の生物の関係性」というものに関してはどうなのか、ということです。

たとえば、 WebBot には「人間は宇宙のどこにでもいる」(生命体ではなく人間)というような発想が繰り返し出て来ていましたが、その概念はありうるのかと。

ちなみに、人間とは何かというのは難しい概念ですが、人間を人間と決めているのは少なくとも「形」ではないです(手足の数や大きさや外見ではないということ)。地球にもいろんな人種がいますが、生活習慣などが大きく違っても、それが「人間か人間ではないか」ということや、あるいは「人間の文化かどうか」というのは瞬時に判断がつきます。これをつかさどっている「元型」はとても強力で、それが人間かどうかをそう簡単には間違わないはずです。

その「元型」が全宇宙レベルで存在するのかという疑問です。

存在するなら、 WebBot にある「人間は宇宙のどこにでもいる」はあり得るし、その元型が宇宙レベルでは存在しないのなら、「宇宙の生命はそれぞれバラバラ」ということになりそうです。

でまあ、今のところ、私は「宇宙レベルの元型はあるんじゃないのかな」と。

上に書いた太田教授は細胞性粘菌という生き物の研究をされていたようなのですが、この細胞性粘菌(粘菌アメーバ)の生態を読むだけでも、少なくとも、「元型は地球すべての生物レベルにあるかも」ということを感じさせてくれます。

それはオカルト的な意味ではなく、人間と粘菌アメーバが共通して持つ物質についてのことですが、このことを今度書こうと思っています。その物質は、環状アデニール酸( CAMP )というもので、アメーバについては集合体を作り行動する際の必須物質となっていて、人間ではホルモンと体内の伝達の役割を持つ「体の循環を保つ生命の必須物質」です。

こういう、生命と社会行動の基礎からしてアメーバも人類もあまり変わらないという事実がありまして、そして、どうしてそこに「生物種を越えた元型があるのか」というようなことも書けたら書いてみたいです。

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▲ 東邦大学理学部生物学科の細胞性粘菌は万能細胞というページにある写真より。粘菌が集まっていく様子。粘菌は数十万単位で集まり、ナメクジのような「移動体」という形を形成する。「どうして知覚機能を持たないアメーバに社会集団行動ができるのか」という研究は昔からされていて、その行動をつかさどる物質が1950年代に判明し、それが、「人間の体内にあるもの(環状アデニール酸)と同じだったこと」に科学者たちは驚いたそう。


ちなみに、これら「統一された元型」を考える上で、先日の薔薇十字の記事の中に出てきた、ヘルメスのエメラルド板に書かれていたこともリンクしてきたりはします。

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ヘルメスのエメラルド板は錬金術の始祖的な言葉ということで、そこだけ見ると完全なオカルトに感じるのは仕方ないですが、こちらのページなどを見ると、アイザック・ニュートンも1680年に翻訳出版していて、歴代の科学者たちにもなかなか魅力のあるものだったようです。このニュートン訳の一説にこういう部分があります。

万物は一者の適合により、一者より来る。
なんとなれば、万物は適合によってこの一者に起因す。


仮にここに何か真実があるとすると、「一者」のほうの大元は神がかった話になるので置いといて、生き物も他の万物と同じものからできているとして考えますと・・・。

生き物の構成は順番として、大きいほうから、

生き物 > 細胞 > 細胞核 > DNA > 塩基

となっていって、この基本の「塩基」の発生の原理がとければ、いろいろとわかりそうな気もします。あるいは、ヘルメスのエメラルド板にあるように、「あらゆる存在は同じ」ということになっていく可能性もあります。

まあ、ただねえ・・・。
塩基とかいわれても何が何やら。
これは今後の課題ですね。

今のところは「塩基の研究は延期・・・」(ここで駄洒落かよ)。


ところで、上の太田先生の本では、最後のほうの章で、粘性アメーバや単細胞生物などの進化の歴史についてふれているところがあって、先生は通常の進化論を書いた後に、「ただ、ひとつ気になることは・・・」というニュアンスで、次のように書かれています。

偶然の試行錯誤の考え方をとるとすると、考えにくい点があります。アミノ酸が百個つながったタンパク質や、塩基千個よりなる核酸のように、現在細胞内にあるもののなかでは小さいほうに属する分子を考えてみても、アミノ酸や塩基の配列のぜんぶの可能性を網羅しつくすためには、宇宙にある物質すべてをアミノ酸にしたり、核酸の塩基にしたりしても、不足してしまうのです。いいかえれば、アミノ酸や塩基がでたらめにつくられ、それらの対応関係が偶然生じたと考えるのは、機械的に過ぎて、実際にはありえないと思われるのです。

原始地球の化学進化の途上で、何らかの必然的要素が働いたと考えるほうが、現在の生物についての知見からは考えやすい感じがします。しかし、その必然の内容については、まだなにもわかっていません。この考え方をへたに進めれば、創造説と同じ道へ入っていってしまうおそれもあります。

このように、生命や細胞の起源を探るときに、素材の点からはじめても、わからないことだらけなのです。


(太田次郎著/細胞工場より転載)


やはり以前からわりと生命の発祥に漠然とした疑問を抱いている専門家は多かったのだなあと思います。そして、「なぜか生命の偶然発生説を否定できなくなっていた状況」というのがあったのかもしれません。

それは、学会などのアカデミーの問題はもちろんあるのでしょうが、科学者たちがもっとも恐れていたことがこの文章に書かれている気がしました。すなわち、「創造説と同じ道へ入っていってしまうおそれ」です。

「生き物は自然に発生したのではなく、誰かが作った」という考えに進んでしまうことが恐ろしいというのがあったのかもしれません。

科学が神話に屈してはいけないという科学者たちの共通した想いの部分かもしれません
もちろん、その「科学は神話ではない」という強い真面目な想いが科学を発展させてきたという側面は強いです。今では人類は DNA の解析にも成功しているのです。

しかし、科学が進むほどに実体が神話に近づいていく傾向は確かにあります。
これからの課題はむしろ「科学と神話の共存」なのかもしれないです。
タグ:進化論


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posted by noffy at 05:57 | 地球と宇宙の生命