ジュリアンというのは、花の品名で、寒い時もよく花を咲かせるので、冬にどこの花屋さんでも店頭で売られているものです。

▲ 冬になると一山いくらで売られている身近な花です。
寒さに強い反面、暑さに弱く、栽培のサイトなどの説明を借りると、
> 低温に強い反面、夏の暑さには非常に弱く、梅雨頃にはほとんどの株を枯らしてしまいます。
という植物です。
ロシアと中東を結ぶあたりのコーカサスという高地が原産らしく、「涼しい地方の高山の中の花」としての血筋を持つ彼女たちにしてみれば、そりゃまあこんな日本のクソ暑い関東あたりの夏など耐えられるものではないと思います。
なので、通年ですと、放置しておくと夏前にほとんど枯れます。
私もそんな感じでいたんですが、6月頃、他のジュリアンはすでに枯れてしまっていた頃、二株だけ「生きて」いたんです。しかも、そのうちのひとつは、暑さに弱いはずなのに、花さえつけようとしている。
私は「仁義なき戦い」の菅原文太風に「やれるもんならやってみやがれ!」と呟き、動向を見守っていたんですが、7月に入り気温もどんどん上がってきました。
多分、ジュリアンの「完全死亡気温」は30度以内だと思います。
実際には25度にもなると弱ってきて、放っておくと枯れますので、暑さには相当弱いものです。
そのうち、関東の日中の気温も「35度」とか論外度を増していき、さすがに、「やれるもんなら・・・」とも言えず、涼しそうなところを移動させてやったりしているのですが、次第に「灼熱下で耐える」ということにもやや慣れてきたようで、日中はシナッと弱っていますが、今のところ灼熱下で生きています。
「死ぬ時は楽に死んでいいんだからね」
と言いつつも彼女たちは今のことろは死にません。
とはいえ、しばらく続くとみられる猛暑の中、何日くらい彼女たちは生きられるのかなあと思っています。
そういえぱ、 In Deep の最近の記事で少しふれた「アリサ」。
本当はこのことを書きたいんですが、本気で書くと長くなるんですよ。
なのでちょっとだけ。
まず、もともとは私はシャオユウという架空の格闘少女に、この7年間魅せられ続けています。
それはどんどん発展させると、ストーリーのある格闘の歴史、つまり、プロレスや相撲といったものから、「人間の温情の歴史」といったものにまでに至る話となってしまいますが、そのあたりは省略します。
いずれにしても、私は最近、そのシャオユウ が「アリサ・ボスコノビッチ」というロボット少女と戦う CG の格闘シーンに感銘を受けたのです。私にとって、この数年、シャオユウという存在は「最高の人間存在」(女性という意味ではなく、人間)だったんですが、それを再確認した感じも少しあります。
そのアリサ vs シャオユウの対戦。

下の動画は映画のシーンだそうですが、実は私は下の映画も漫画も、そして、彼女たちがキャラである「鉄拳」のゲームをやったこともないし、何も見たこともないのです。ほとんど想像だけでシャオは存在しているのですが、シャオは映画でも私の想像通りだったのです。
参考までに、私が歴代の「格闘」の中で今に至るまで最も感動した戦いは、 2001年に米国のプロレス団体 WWF のキングオブザリングというイベントで行われた試合です。
WWF (現 WWE)の試合にはすべて綿密な脚本があります。
その「脚本通りに進むだけ」の中になぜ私などは涙を流していたのか。
それが私の「感動の源泉」とも結びつくことなんですが、これを書き始めると私の生きている意味のほとんどに繋がってしまうので、むしろ書くのは無理っぽいです。
「格闘が人を喜ばせてくれた時代」というのは、ちょうどその 2001年頃に終わりを迎えます。
私はかつて相撲も好きでしたが、たとえば、1996年の「舞の海 vs 小錦」戦などを見ると、今見ても、どうして、その頃は、相撲が愛されたのかがよくわかります。
それはやっているほうが「愛されようとしてやっていた」から。
プロレスもそうなんですが、「それだけ」を基本として存在していたものでした。
「どうやって、あいつら(観客)を喜ばせてやろうか」
という部分が非常に強くありました。
それは特に、日本で生まれた「思想」でした。
でも、近年、誰が強いとかガチとか八百長とか下らない概念が本気で表に出始めて格闘は死んだわけですが、そういう「ガチ論」を言い出したのは格闘をする本人たちではなく、メディア=インテリでした。
「ガチの勝ち負け」なんて学歴と戦争だけで終わらせておけばいいのに、学歴と階級だけが頼りのインテリたちは格闘のフィールドにまでその概念を持ち込んでしまった。
そして、ぜんぶ「おもしろさは消えた」というのが現状です。
この世には勝ち負けなんて概念はもともと存在しないのに。
まったく存在しないのに。