2011年08月12日

聖書について私が知っている2、3の事柄



知り合いの方からメールをいただいて、なんか、この間の記事で、聖書のこと(ヨハネによる福音書)にふれたりしていたこともあり、聖書のことが書かれてありました。

私は聖書のことを書いたりすることもあるとはいえ、「じゃあ、聖書のことをよく知っているのか」と聞かれると、

全然知らない

という答えが咄嗟に出ます。

有名なくだりをいくつか知っているかどうかという程度の。たとえば・・・右だか左の頬を打たれたら・・・左だか右の頬を差し出す? 突き出す? ・・・くらいの知識です。


では、「じゃあ、聖書との付き合いなんか最近のほんのちょっとなんだね」と言われると、


「いえ、今年で25年目になります


と答えられます。

聖書と私の関わりは長いのです。

まあ、その成果が「右だか左の頬を打たれたら・・・左だか右の頬を差し出す? 突き出す?」程度の知識だというのはともかくとしても、そのくらいの長い歴史があるのです。


しかし、確かに25年経過したとはいえ、残念なことに、その 25年間くらいの間で実際に聖書とふれた時間というのが、「大体4、5日」というのもまた事実で、このあたりのことを書きたくなりました。

今年、480歳になるわたくし(そんなになるのかよ)。

いやいやいやいやいや(いや、は二回でOK)、まあ、いずれにしても、四十代の後半を迎えたわたくし。
その中の 25年にわたる「私と聖書」。




パニック障害の渦中で見た「イエスの方舟」

私が二十代の前半の頃、テレビ番組で、「イエスの方舟」というのがありました。
調べてみると、こちらのページにありまして、昭和60年の作品ということのようです。 TBS の単発ドラマ。昭和60年は 1985年になりますかね。

上のページには「昭和60年度文化庁芸術祭芸術作品賞受賞作品」という物々しい文字が躍っていますが、そういう物々しい響きは別として、とにかく面白いドラマでした。実際にあった「イエスの方舟事件」を、ビートたけしさんと、あとは当時、私が大好きだった佐藤慶さんが共演して演じたドラマでした。

当時、私はテレビを持っておらず(18歳くらいから30歳くらいまでテレビをほとんど見たことがないのです)、人の家にいた時に、偶然、その部屋のテレビでこの「イエスの方舟」をやっていたのです。


これが面白かった。


映画は当時もよく見ていたのですが、その部屋の人に「テレビのドラマってこんなに面白いんだね。これじゃみんな映画なんて見なくなるはずだ」と言ったくらいです。

音楽が日本の現代音楽の女王様である三宅榛名さんで、彼女が全編ソロで不気味なオルガンを鳴り響かせているというような怪作でもありました。

実は今日知ったんですが、この「イエスの方舟」が今、 YouTube 上に全編あるんですよ。古い作品とはいえテレビ番組なので、早々削除されるような気はするんですけど、タイトルをいれないでリンクしておきます。

10に分割してアップされています。

1-10

1 http://www.youtube.com/watch?v=ojlbUqZ4kho
2 http://www.youtube.com/watch?v=YBCqGPkoH-A
3 http://www.youtube.com/watch?v=ggT3lwinYgI
4 http://www.youtube.com/watch?v=ggT3lwinYgI
5 http://www.youtube.com/watch?v=kQJlvYUWg7w
6 http://www.youtube.com/watch?v=FjTU5X_qMLI
7 http://www.youtube.com/watch?v=CbQDvrtCRPk
8 http://www.youtube.com/watch?v=xtL8G4u8MuU
9 http://www.youtube.com/watch?v=X_xpPv3kqcY
10 http://www.youtube.com/watch?v=bjxSkNtHgY0


私は今でも、この番組の冒頭シーンを見るとジーンときます。

このドラマを見た後、「生まれて初めて」聖書に興味を持って、実際に買ったことを思い浮かべます。


10年くらい前にビデオで見直したことがありますが、今回 YouTube で見たのは久しぶりでした。今回、 YouTube で久しぶりに見直して感じたのですが、このドラマはまた、一昨日くらいに In Deep の・

第21太陽活動最大期にジョン・ライドンが夢見た「アナーキー・イン・ザ・UK」

という記事に書いた、「すべての人は「自分の居場所」と「自分の精神的な拠り所」だけを探して生きている」という若者群像に他ならないと思いました。


「イエスの方舟」には好きなシーンがいくつもありますが、ストーリーの中で、信者の女性たちと一緒に暮らしていた千石イエスの娘が家出をしてしまい、その娘を探すために、信者の女の子たちが一生懸命、全国を回る中のシーンがあります。

そこで、信者のうちのふたり(若き田中美佐子さんと小林聡美さん)が、東京の原宿に探しに来た時のふたりの会話が何となく好きでした

ふたりとも、女の子の親たちは「カルト教団に娘をさらわれた」と思っている。しかし、実際はそうではないことを親に伝えたくとも、親元に引き戻されることのほうがイヤなので言わない。

それほど親という存在は嫌われているのです。

少なくとも、このドラマの信者の女の子たちの親は(そして、私たちの世代の多くの親たちもそうでした)。

その部分を抜粋しました。
台詞も抜き出してみました。

役名がわからないので、田中美佐子さんがA、小林聡美さんがBで。
「おっちゃん」というのは千石イエスのことです。
小林聡美さん演じるBの少女の役は中学生か高校生のはず。







A 「東京まで来て探すようじゃおしまいよね。いくら、タエちゃんがこの街がすきだったからって、ここで働いている保証なんてないもんね。下手すりゃこっちが親にとっつかまっちまうわ」

B 「そろそろ、つかまって東京で暮らしたいんじゃないですか」

A 「そうでもない。結構今の生活楽しいもん。・・・おっちゃんがいて、みんながいて。・・・神様ってよくわかんないけど、何となくいいのよね。夢があってさ。・・・あんたこそどうなのよ。あたしなんかと違って、ピアノやってれば充実できたんじゃない? 檜舞台踏んでさ」

B 「それだけならね」

A 「ああ、いろいろあるんだ」

B 「なんか、お父さん、愛人いるみたいでさ、お母さんとすごいのね。だから、あたし、うちにいてもたまんないんだよね」

A 「そういうの手紙に書いてやればいいのよ。一方的にテレビなんかでこっちの悪口ばっかり言われちゃってさ」

B 「手紙?」

A 「あたしね、書いてやろうと思ってんだ。それで、放送局とか週刊誌に出してやんの。どうしてあたしが家出したのかって。そうじゃなきゃ、おっちゃんに気の毒だもん。(通行人に)写真撮ってもらえますか? 記念写真撮って同封してやろう。みんなビックリするよ」

(手紙の内容)

A 「教会へ行ったキッカケは・・・恋に破れて、ズタズタになったからです。でも、誰と結婚しても結局は同じことです。・・・子供を産んで、亭主の浮気で母さんはきりきり舞いして、こういう街でたまーに息抜きして、おいしいもの食べて・・・年とって・・・そんだけ! ゼロ。 ・・・先が見えて・・・やりきれないです」







このドラマを見た時の私は、1985年という年代から考えると 22歳だったようで、まだ劇団のようなものもやっていなかったし、大学はもうヤメていた頃です。拠り所が何もなく、In Deep に書いた「自分の居場所」と「自分の精神的な拠り所」はまるでありませんでした。


だから、この信者の女性たち、特に上の田中美佐子さんの「神様ってよくわかんないけど、何となくいいのよね。夢があってさ」という台詞がなんだかうらやましかった

何しろ、この人たちは「自分の居場所」と「自分の精神的な拠り所」が見つかっちゃったわけですよ。

どうしてそういえるかというと、このドラマでは、信者の19人の女性たちは、一度親たちの元に返された後、今度は「親の了承の証書」を手に、「全員」、千石イエスのもとに戻ってくるのです。

家出した娘も戻ってきます。

少なくとも、彼女たちには千石イエスの教会(聖書の研究会)が「自分の居場所」だったようなのです。

でも、上の田中美佐子さんの台詞にあるように「神様ってよくわかんないのよね」と。
実は聖書の中の神様もどうでもいい

「ここにはいい人がたくさんいるから」と。

それで死ぬまでみんなでそこにいる。
世間から見て、それが是であろうと非であろうと、宗教であろあとなんであろうと、結果として確かにそこが居場所だった。


ドラマを見ている途中でそのことに気づいた私は、


チクショー、オレにはこういうのがない・・・


と思いながらも、ドラマで繰り返しフレーズが出てくる「聖書」というものに興味が沸いたのです。千石イエスの最終的な教団名は何か知らないですが、ドラマでは最初、「聖書研究会」という名前のグループで活動していました。


ドラマでも何度も何度も執拗に字幕入りで千石イエスの語る聖書の言葉が出てきます。そして、それは、まるで、「聖書普及番組」のごとく、私の胸の中に入ってきたのです。

なので、私が人生で最初に覚えた聖書のフレーズの多くはこの「イエスの方舟」で字幕で表示されていたものです。

その中で当時の私がもっとも心を打たれたのはこの一節でした。
4シーンになりますが、 そのまま載せます。

「ルカによる福音書」 12章 51節〜53節の部分です。


0101.jpg



0102.jpg



0103.jpg



0104.jpg



このドラマの字幕は昔の聖書のもので、ちょっと言い回しが難しいですので、日本聖書協会からはここうなります。



あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。

今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。





聖書にこういうようなフレーズがあることを知り、22歳の私は聖書を初めて自分で手にしたのですね。
古本で買ったんだったか、何だったか忘れましたが、ポケットサイズの聖書。



読みはじめて・・・

2ページ目で飽きました。



いや、でもね。

いろいろと努力はしたんですよ。
聖書を理解したいと。

当時、パニック障害が1番ひどい頃で、そういうのもあるいは良くなるかもしれないとかも思ったし、わりと「本気」でした。
地元のキリスト教の教会に行ったりもしたり。

でも、まあダメでしたね。

それでスーッと興味が失せて・・・次に突然、また聖書と交わったのが、それから11年後の33〜34歳頃のことでした。

多分、1998年前後のことだと思います。


そのキッカケは2つあるのですが・・・・・・。




つーか、ここまでだけでも、すげー長くなってますね。
今気づきました。

聖書を語らせたら止まらない(ほとんど知らないくせに)。
1998年のキッカケについては次に書きますね。


ところで、上の「聖書にハマる周期」ってのが太陽周期のサイクルとわりと一致していることに気づいたんですよ。

今も太陽活動の最大期ですけど、唐突にたまに聖書のこと書いたりしますしね。

おい、聖書!
お前は太陽となんかの関係あるかい?(北海道弁)


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posted by noffy at 20:46 | 地球の歴史

2011年07月26日

千年ムスコが気づいた「何も存在していない」現実



永遠の夏休み


子どもの幼稚園が夏休みに入りまして、昨年までは子どもは奥さんの実家のほうに長く遊びに行くということになっていたのですが、奥さんの実家はいわゆる「老老介護」問題を抱えていて、70代の女性が100歳の母親の介護をするという日々が続いており、今年は基本的に行けません。


そういうこともあり、昼間は子どもと一緒にいる時間が増えて、その上、夜は夜で以前より用事もあったりしていて、クレアの日記を書くことがあまりできませんでした。


夏休み・・・。

昔、大島弓子さんの漫画に「毎日が夏休み」というのがあり、会社に行かなくなってしまったお父さんと学校に行かなくなってしまった娘の交流の話でしたが、私は先日、子どもに、

「おとーさんって夏休みはいつなの?」

と訊かれました。

私は、


「それはね。毎日だよ」


と大島弓子さんの漫画と同じように答えたと思います。



あまり時間はないとはいえ、実は書きたいことは本当にたくさんあります。あまりにもたくさんありすぎて、むしろどれから書いたらいいのかわからなくて結局何も書けないです(何だそれは)。


それにしても、先日の台風マーゴンの影響は個人的には予想以上に大きくて、それは被害ではなくて(東京は微風すら吹かなかったです)、どうやら「台風が熱波を持っていってくれたっぽい」ということです。

台風以来東京は本当に涼しくなって、少なくとも、朝晩はパラダイス。朝方の散歩も復活しています。

まあしかし・・・これは台風の影響と共に、あの死ぬほど暑かった日々の私の毎日の祈りが通じたのかもしれません。


その祈りとは・・・。


pray-girl.jpg


(苦笑)。

最適温度14度の私の祈りはまだまだ続きます。


ところで、日本は全体的に涼しくなった感じですが、外国はいまだに暑いところが多く、米国も地域によってはいまだに非常に暑いようですが、今年もロシアがすごい。

特に首都モスクワはもはや北の街ではないです。

モスクワの今週の天気予報。


moscow-0725.png


7月28日の「雨が降って、なお 36度」って地獄のような・・・。
もはや熱帯ジャングルとかの気候に近い感じがします。




「母は娘からファッションの影響を受けている」という調査結果


昨日の米国のニュースにあった科学記事でとても面白いものがありました。

米国にテンプル大学というペンシルベニアの州立大学があるのですが、そこの研究発表リリースの内容がかなりおもしろいものでした。

Study: Some Moms 'Copy Their Daughters' Style


調査は、親子のうちの「母と娘」を対象に行われたもので、つまり、女性の親と女性の子どもの関係性の調査をおこなう中で判明したというもので、発表の要旨は、


・母親は娘の生活スタイルから影響を受ける傾向が強い



というものでした。

この「生活スタイル」というのは、主にファッションなどで、あるいはそれに類する嗜好や様々な趣味などです。


・娘が母から影響を受ける


のではなく、


・母が娘から影響を受ける


という傾向が極めて強いことが示されたということなんです。

母親の年齢と、親子の年齢差などによって違いはあるよるようで、母親が若ければ若いほど、娘の影響を受けやすいということです。


一般に、親子関係というのは、「上から下」、つまり、「親から子」へと伝承していくという概念が当たり前のように考えられていたり、あるいは、「親と子は別々(少なくともファッションでは)」という概念があったりしますが、今回の大規模な研究でわかったのは、「子から親へ」と影響が伝播していっているという構図でした。


意外といえば、意外にも思えるのですが、しかし、この研究が「女性のみを対象としたもの」であることを考えると、そして、今までクレアで書いたようなことを重ねて考えると、なんとなくわかるような気もします。


人類の未来(6):女性の外見が目指すもの - 神話が望んだ性的二形の最終形 (2011年07月08日)


という記事の中で、


「人類の創造時にヌーワが夢見た「性的二形から離れた自分の価値観の中での自分の美しさ」は、「男性を惹きつけるための美しさ」ではなく、「自分に対しての美意識」という部分に向いていた


そして、私が確信している「女性は(美意識とその発現に関して)進化している」という前提が仮にあるとすれば、世の中の母親たちは自分の娘たちを見て、


「わたしの娘はなんてかわいいのかしら」


と、通常の子どもへの愛情からくる可愛らしさとは違う意味でも思っていたりするのかもしれません。

そして・・・。


「わたしも娘にあやかりたい」


と(笑)。


ま、たとえば、これは先日の上の記事でも挙げた美人時計の表紙ですが、


bijin-t.jpg


この中に自分の娘がいるとして、そのファッション共々、それを見つめる母親たち。


「かわいい・・・」とつぶやく母親たち。


まあ、米国研究の、「母親は娘からファッションの影響を受けている」というのは事実らしいですので、少なくとも女性のファッションに関しては、「下の世代から上の世代に伝わっていく」という傾向があるようです。

男性にはこの傾向はないかもしれません。
これは年配の男性を見ていればわかります。

ちなみに、上の米国での調査は、消費動向を探るためのもので、つまり、経済的な調査の一環のようです。




梶井基次郎が宇宙にふれられた理由のひとつ:「ルックス」


さて、書きたいことはたくさんあるのですが、梶井基次郎さんのこともやはり書きたいです。


人類の未来(7): 言語による宇宙存在と人類存在の再プログラミングは可能か?(その1)


という記事で書いた梶井基次郎が気づきつつあった「言語と宇宙の関係」。

しかし、私はその梶井基次郎がこの崇高な地点にまでも行き着くことのできた理由も少しわかったのです。それは彼の短編を読めばよくわかるひとつの事実。


「梶井基次郎は女性にモテなかったであろう」


ということ。
これは推定ではありますが、読む限り、それ以外の解釈ができません。

親からくすねたお金までも含めて、ほとんどを芸者さんにつぎ込む日々。
その芸者さん自体はその梶井のことをそんなに覚えていない感じの雰囲気等(苦笑)、いろいろと苦しい部分は垣間見えます。


どうして「女性にモテないことが宇宙の真理に辿り着くことと関係があるのか」ということ。


これにはいろいろな理由はあると思いますし、一言では書けないですが、「男と女」という問題をずっと考えている昨今では思うところもあります。もっとも大きな理由は、仮に梶井基次郎がモテてモテて仕方なかったら、「ま・・・いいや、真理とかは。今は。」ときっとなっていたはず。

作家はきっとモテないほうがいいのです。
今モテている作家の方は今すぐモテなくなったほうがいいです(苦笑)。
いやホント。


kajii.jpg

▲ 梶井基次郎さん。苦労も多かったようですが、到達しつつあった世界観はまさに世界でも類を見ないほどの地点(「宇宙の成り立ち」)でありました。



でもね、梶井さん(死者への語り)、オレなんかも、夜の街でお金使ったりし続けてきて全然モテなかったわけで、まあ、似てるわけで。

梶井さんも多分、小説を読む限りでは、不安神経症でパニック障害。
当時は効果的な薬もあまりなかったでしょうし、そりゃどうしてもお酒に行くわけですよ。

まあ、でも、ルックスの問題もあったかもね、梶井さんは。


 ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \



と、死者の怒りを爆発させて、この項は終わりということにしておきます。


(まあまあ、怒らないで、梶井さん ← 多分怒っていないと思う)




千年ムスコが気づいた現実


なんか話が断片ばかりで申し訳ないですが、もうひとつ。

以前、

楽な趣味の神様をめぐる男たちの人生 (2011年07月16日)

という記事でふれた、「弥次喜多 In Deep 」なんですが、その時は「今、手元にない」と書いたんですが、その後、買い直しました。廉価版というのがあって、それが古本で全巻セットで1000円で売っていたので買いました。

後半のほうだけ読み直して、当時(数年前)は気づかなかったんですが、この「弥次喜多 In Deep」という漫画、そのテーマは、



・この世は存在していない




ということだったことにようやく気づきました。

ヤジさんキタさんが、「新しい世界を言葉から創造する」というような下りがあることは書いたのですが、漫画はそこで終わりではなく、そこから「新しい世界」のエピソードが長く続きます。

その世界には弥次喜多は存在しておらず、弥次喜多は「神」として概念だけが奉られていて、また、その世界の支配者は「鳥」です。

そして、漫画のラスト。
新しい世界も、すでに「狂った世の中」になっています。

そこに、さらに新しい世界ができる予兆を描いて漫画は終わるのですが、そこが感動的ですので、ご紹介しておきます。


この漫画の登場人物のひとりに「千年ムスコ(息子)」という子どもがいます。命名の由来は忘れました。千年生きる種族の子どもだったか、千年続いた村の一族の子どもだったかなんですが、小学生くらいの男の子です。


この「千年ムスコ」だけが、この長いストーリーの末に、ふと、


「この世は存在していないのでは」


と気づくのです。


yaji-last.jpg

▲ 千年ムスコ。目の前に亡霊のように現れた弥次さんと喜多さんを前にこの台詞を言う。



この

「まさか、弥次さん喜多さんまで・・・ホントウはいないんじゃ・・・」

という台詞は、予想以上に重い台詞で、漫画のストーリーの後半部分の世界では、弥次喜多は神格化された存在となっていて、つまり、「リアルではないもの」として描かれます。

つまり、弥次喜多はすでに抽象的な意味での宇宙となっている。

その意味するところは、「現在の宇宙はすべて弥次喜多から始まった」ということになり、上の台詞の「弥次さん喜多さんは実際はいないのでは?」という台詞は、


・宇宙って存在しないのでは



という台詞であり、そして、それはさらにいうと、


・この世には何も存在していないのでは



という疑問です。

子どもにはあまりにも大きな疑問を抱えてしまった千年ムスコですが、しかし、そこはさすが弥次さん喜多さん。「何もない世界」へ旅立とうとしている千年ムスコに、弥次さん喜多さん(のようなもの)は、「闇夜の中で言葉だけで」こう言います。






そりゃあ不安だろうよ

だけどな・・・その不安をな ぐっとこらえて

ボウズが

そこに「ある」と思ったらな

そのちっちゃな足を・・・

そう

ぐっと・・・

そうやって前に出していくしかねえんだよ

そうやって・・・

ぐっと・・・






千年ムスコは、そのまま「存在しない中」へと進んでいきます。

最後は、その千年ムスコの後ろ姿も消えて漫画は暗黒となって終わります。


olas.jpg


ちなみに、この千年ムスコは「狂った新しい世界」の中でほぼ唯一まともな人間ですので、彼のつくる新しい世界なら多分大丈夫なような感じがします。


あと、いろいろ日記として書きたいことも、いろいろとあるのですが、おいおい記してみたいと思います。


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posted by noffy at 15:58 | 地球の歴史

2011年07月18日

生命の確率(2)



昨日、 In Deep に、「スタンフォード大学で計算された宇宙の数: 「ビッグバンで作られた宇宙は10の1016乗」個」という記事を書いたんですが、その中に、「10の100乗」という単位が出て来ます。


10, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000


これが 10の100乗です。

これを見て、ふと、以前、このクレアに書いた

地球の成り立ち(1) - 生命の確率 (2010年03月29日)

を思い出しました。
そこには、「地球上で無機物から生命ができる」という確率について、パチンコを例にして書いています。

そして、「無機物から偶然に酵素ができるまで」の確率までを書いています。「100個のアミノ酸からなる酵素を、完全にランダムな選択の過程によって作る」その確率です。

ところどころを抜粋します。


(ここから抜粋)


生物のからだを作るのに使われるアミノ酸は20種類だそうで、その中で、特定の機能を持つ酵素を作るためのアミノ酸の配列はすべて決まっているのだそうです。

つまり、

100のうち最初の1つのアミノ酸は20種類の中からひとつ選ばれます。
「20分の1」の確率から正しく選ばれなければならないわけです。

ひとつめですでに確率は

20分の1

ふたつめも20分の1。

みっつめも20分の1・・・と、100個まですべて20分の1の確率を最後まで正しく選んで構成していかなかいと、機能するための「生き物の素」というのはできないのだそうです。

その確率。

10の130乗分の 1

このうち、似たようなアミノ酸で代用して構成することを考えて、もう少し確率は甘くなるようですが、さて、しかし、この「10の130乗分の1」の確率を乗り越えても、まだやっと「ほんの小さな酵素がひとつできただけ」なのです。

そして、上の果てしない確率をくぐり抜けたとして、たとえば、小さな単細胞生物ひとつができるためにこれがどれだけ必要かというと、大体「2000個以上の酵素から生き物は構成されている」らしいのです。

そして、自然発生説では、これらがすべて「偶然に起きた」としているわけです。

その確率。
最初に出た数字の「10の130乗分の1」からみると、

10の130乗分の1 × 2000

から見ると、すなわち、

10の26000乗分の1

ということになります。

もうゼロがどれだけ続くのか想像もできない数字ですが、兆とか京の出る幕ではないのではないでしょうか。

そして、ここから生命には他に様々なものが必要だと思われます。ここで、ふと

・・・?

と思ってしまうのです。

この「超天文学的数字の確率」というのは、いくら何でもおとぎ話にもならないレベルの話なのではないだろうかと・・・。


(抜粋ここまで) (注) 上の「10の130乗分の1×2000」を10の26000乗分の1としていて、すでにかけ算が間違っていますが、ここでは、たとえば 1000兆や1000京くらいの誤差はあまり関係ないですので訂正していません。


今回の「資料」というのは、昨日の In Deep の記事で書きました「10の100乗」をあらわす、


10, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000, 000


を見て、さらに上の「 10の26000乗分の1」を表示してみようかなとおもった次第です。


ちなみに、これはあくまで非常に単純な構造の小さな生物が一個できる確率」だということを繰り返し書いておきます。

また、当然ながら、「人為的に無機物から構成されるのではなく、ランダムにできる」ということです。人為的に無機物を構成して生命を作る条件を入れると、そもそも生命ができる前に生命がいたという変な話になるように思います。


ここから今度は多細胞生命などに進化していく確率や、そこから生物の種類が分化したり進化したりしていく確率をかけていくわけで、多分、同じくらい(あるいはそれ以上)の乗算となると思います。


下の「数字分の1」が無機物から単細胞生物のような生き物ができる確率です。


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3-10.gif

分の1。

もちろん、これはおよその確率です。


上の数値を昨年知ってから、私は地球での生命発生説はおとぎ話であるということに気づき、そして、「現実は他のところにある」と考えざるを得なくなった次第です。


私自身は常に現実の世の中に生きているという実感があり、現実以外のおとぎ話は私自身には不要です。夢は夢の中だけでいいわけで、現実にあまりにも夢を取り入れすぎると、生活の失敗に結びつくような気もします。「夢を見るのもほどほどにしなさい」と、若い頃、親に言われたことのある人も多いのではないでしょうか。

なので、私たちもそろそろ上の夢から、すなわち無機物から生命が自然とできたというような夢から「人類全員で」覚めてもいいような気もします。無機物から生命が自然とできたという可能性は一切ないと思います。


私は長くギャンブルをやっていたので、「確率の厳密さ」を知っています。また、一般的なギャンブルの場合、「当たりとハズレの間に曖昧な概念はない」です。
まさに現実。

地球に多様な生命体系がそれぞれに進化をするという確率の収束は、自然発生説とダーウィンの進化論ではとても地球の数十億年の歴史では足りないことが、ギャンブルを考えるだけでもわかります。

分母の数の問題ではなく、数字は数字です。
厳密だと思います。


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posted by noffy at 06:52 | 地球の歴史