
▲ 1972年のフランス映画『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』より。何百回くらい見たかもわからないですが、私が二十代の頃から生涯で最も回数を見た映画です。この「道を歩くシーン」はストーリーと関係なく随所に挿入されます。同じ道を歩いていても、「それが現実かどうか」を考えながら歩くことはありませんけれど、まれに「ふと」その思いに駆られる時があります。
先日、
・単なる心象的な風景変化に「フェイズの変化」とつけてみたり
2014年04月05日
というような記事を書いたりしたんですけれど、一見感覚的にしか聞こえないこのようなフレーズについては、現実的にわかりやすいふうに書いてみてもいいかなあと思いまして。
今ちょっと熱っぽくてボーッとしていまして、うまく書けるかどうかわからないですけれども。
その人の中の「美と醜」の比率
どんな人にでも、
・美しいと思えるもの(あるいは概念)
と
・醜いと思えるもの(あるいは概念)
があると思うのですね。
そして、この世の中では、その人にとって、「美しいもの(あるいは概念)だと感じる数と、醜いもの(あるいは概念)と感じるの数とどちらが多いか」というような比率は存在しています。
「○○は美しいものだ」
「××は美しい生き物だ」
「△△は美しい考え方だ」
というようにいろいろな美しいものや概念が多くの人の中にあり、また、同時に、その人にとっては「醜いと感じるものや概念」があります。
ところで、ここにおいて大事だと思うのは、
・その価値観の比率が完全に同じ人間は地球上に他には一人もいない
ということがあります。
これはまあ、当たり前といえば、当たり前のことなんですけれど、「何となく完全に同じ人がどこかにいそうな気がする」というような考えに陥ることはあるかと思います。
仮にいるとすると、それはまたちょっと違う話になりますので、それはともかくとして、結果として、今、私やあなたが生きている世界というものは、「私やあなたの価値観で見て考えている世界」であるわけですから、
・世界はその人だけのもの
ということも、言えることは言えるわけです。
例えば、何人かの人が同じ道を歩いているとします。
その時、人それぞれが「どこを認識して見ているか」ということは、他の人にはわからないし、まして、そのどこに「美」と「醜」を感じているかはまったくわからないわけです。

▲ 日本の道百選より。
写真の丸は意味があって、つけたわけでないですが、以下、すべて、「たとえば」と冒頭につけまして、この道を歩いていて、
・花に興味のある人はそれを認識します
(逆に興味のない人はそれは視界に入っているだけで認識されない)
・石畳の苔に興味のある人はそれを認識する
(逆に興味のない人はそれは視界に入っているだけで認識されない)
・看板に書かれてある文字に注目する人
(漢字が読めない人を含めて、見ない人たちは認識しない)
・空の雲・・・
(以下同じ)
・家の屋根・・・
(以下同じ)
こんなことを挙げてもキリがないですが、人は自分が意識していなくとも、視界に入っているものの中で、認識しているものと認識していないものがあるという事実があります。
なので、
・その人に見えている世界や聞こえている世界は、自分の認識の中で作られている
といって間違いがないです。
そして、さらにその認識された世界の中には誰にでも、
・美しい
と
・醜い
が存在します。
この比率が・・・まあ、極端ですが、たとえば、
「この世の中の 80 パーセントは美しい」
と感じて生きている人と、
「この世の中の 80 パーセントは醜い」
と感じて生きている人がいたとしまして、この場合は、もう、このふたりが住んでいる世界はまったく違う世界のはずです。見えているもの、聞こえているもの、感じているもの、それらを含めて、それぞれの世界はまったく違うものとなっているはずです。
実際には「同じ世界」どころか「同じ地球」とか「同じ宇宙」という概念さえ、本当はないと私は思っていますけれど、それは何だか面倒な話になりそうですので、ふれずに進みます。
現実には、普通の人が持つ「美」と「醜」の概念の比率はそれほど変わらないもので、ちょっとどちらかに寄っているとか、そういう場合が多いと思われるのですが、その比率が「ほんのちょっと変わる」だけで自分の世界は劇的に変わるのです。
パーセントで言えるものではないですが、0.1パーセントだとか、その程度の話だと思います。
というより、「ほんのちょっとでもいい」のではなく、むしろ、「ほんのちょっと」でなければいけない、というように思っています。劇的な変化はどこかウソくさい。自分に正直ではない「意図的なもの」を感じます。
ほんのちょっとの「位相の変化」が積み重なるほうがいいのだと個人的には思います。
それはともかく、私は過去に何度か「位相の変化の瞬間」を経験していまして、
・その瞬間から世界の風景が変わる
ということを実感しています。
妙な話にきこえるかもしれないですが、「人の顔まで変わる」のです。
同じ人の顔まで。
これは多分、その人の顔をそれまでちゃんと見ていなかったとか、見る位置が変わったとか、いろいろと具体的な理由は考えられそうですが、いずれにしても、生きてきた 50年位のあいだに、繰り返しそういう経験をしていて、そのたびに、自分の世界は変化してきました。
そういえば、先日の In Deep の
・世界中で報道された「火星のフラッシュ」で飛び交う議論。しかし、「妖精の登場」には冷たかったこの世の中
という記事に「妖精の写真」が出てきますが、私はああいう話をあまり不思議だとは思いません。
これは妖精の存在の方の話ではなく、つまり、「見えなかったものが見えてくる」ということについてです。

▲ 上の記事より。
見えなかったものが見えてくるというのは、何か新たに登場してきた、とか、隠れていたものが出てきたとか、ではなく、もともとこの世にあるものが「認識された」というだけのことだと思っています。
その例の私の場合を具体的に書くと馬鹿みたいなので書かないですが、そういうことはよくありました。
2008年頃とか、震災のあった 2011年頃も多かったです。
個人的には、むしろ平和な時より、危機感の強い時(個人的でも社会全体でも)のほうが「美しいものを初めて認識しやすい」傾向にあります。そういう意味では、これからの世の中では、今までよりもさらに強い「内部の価値観の移行」が進むのではないかなあと思ったりもしています。
そのたびに多くの人々の「自分が住んでいる世界が変わる」わけです。
これがある意味での「進化」なのだとしたら、たった数十年の人生でも、人間は場合によって、それなりに進化できるものなのかもしれないです。
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