2014年04月14日

フェイズの変化:誰でも経験し続けている「自分の中の美しい価値観と醜い価値観の比率」のわずかな移行

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▲ 1972年のフランス映画『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』より。何百回くらい見たかもわからないですが、私が二十代の頃から生涯で最も回数を見た映画です。この「道を歩くシーン」はストーリーと関係なく随所に挿入されます。同じ道を歩いていても、「それが現実かどうか」を考えながら歩くことはありませんけれど、まれに「ふと」その思いに駆られる時があります。



先日、

単なる心象的な風景変化に「フェイズの変化」とつけてみたり
 2014年04月05日

というような記事を書いたりしたんですけれど、一見感覚的にしか聞こえないこのようなフレーズについては、現実的にわかりやすいふうに書いてみてもいいかなあと思いまして。

今ちょっと熱っぽくてボーッとしていまして、うまく書けるかどうかわからないですけれども。



その人の中の「美と醜」の比率

どんな人にでも、

美しいと思えるもの(あるいは概念)



醜いと思えるもの(あるいは概念)

があると思うのですね。

そして、この世の中では、その人にとって、「美しいもの(あるいは概念)だと感じる数と、醜いもの(あるいは概念)と感じるの数とどちらが多いか」というような比率は存在しています。

「○○は美しいものだ」
「××は美しい生き物だ」
「△△は美しい考え方だ」

というようにいろいろな美しいものや概念が多くの人の中にあり、また、同時に、その人にとっては「醜いと感じるものや概念」があります。


ところで、ここにおいて大事だと思うのは、

その価値観の比率が完全に同じ人間は地球上に他には一人もいない

ということがあります。

これはまあ、当たり前といえば、当たり前のことなんですけれど、「何となく完全に同じ人がどこかにいそうな気がする」というような考えに陥ることはあるかと思います。

仮にいるとすると、それはまたちょっと違う話になりますので、それはともかくとして、結果として、今、私やあなたが生きている世界というものは、「私やあなたの価値観で見て考えている世界」であるわけですから、

世界はその人だけのもの

ということも、言えることは言えるわけです。

例えば、何人かの人が同じ道を歩いているとします。

その時、人それぞれが「どこを認識して見ているか」ということは、他の人にはわからないし、まして、そのどこに「美」と「醜」を感じているかはまったくわからないわけです。


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日本の道百選より。


写真の丸は意味があって、つけたわけでないですが、以下、すべて、「たとえば」と冒頭につけまして、この道を歩いていて、

・花に興味のある人はそれを認識します
(逆に興味のない人はそれは視界に入っているだけで認識されない)

・石畳の苔に興味のある人はそれを認識する
(逆に興味のない人はそれは視界に入っているだけで認識されない)

・看板に書かれてある文字に注目する人
(漢字が読めない人を含めて、見ない人たちは認識しない)

・空の雲・・・
(以下同じ)

・家の屋根・・・
(以下同じ)



こんなことを挙げてもキリがないですが、人は自分が意識していなくとも、視界に入っているものの中で、認識しているものと認識していないものがあるという事実があります。

なので、

その人に見えている世界や聞こえている世界は、自分の認識の中で作られている

といって間違いがないです。


そして、さらにその認識された世界の中には誰にでも、

・美しい



・醜い

が存在します。

この比率が・・・まあ、極端ですが、たとえば、

「この世の中の 80 パーセントは美しい」

と感じて生きている人と、

「この世の中の 80 パーセントは醜い」

と感じて生きている人がいたとしまして、この場合は、もう、このふたりが住んでいる世界はまったく違う世界のはずです。見えているもの、聞こえているもの、感じているもの、それらを含めて、それぞれの世界はまったく違うものとなっているはずです。


実際には「同じ世界」どころか「同じ地球」とか「同じ宇宙」という概念さえ、本当はないと私は思っていますけれど、それは何だか面倒な話になりそうですので、ふれずに進みます。


現実には、普通の人が持つ「美」と「醜」の概念の比率はそれほど変わらないもので、ちょっとどちらかに寄っているとか、そういう場合が多いと思われるのですが、その比率が「ほんのちょっと変わる」だけで自分の世界は劇的に変わるのです。

パーセントで言えるものではないですが、0.1パーセントだとか、その程度の話だと思います。

というより、「ほんのちょっとでもいい」のではなく、むしろ、「ほんのちょっと」でなければいけない、というように思っています。劇的な変化はどこかウソくさい。自分に正直ではない「意図的なもの」を感じます。

ほんのちょっとの「位相の変化」が積み重なるほうがいいのだと個人的には思います。


それはともかく、私は過去に何度か「位相の変化の瞬間」を経験していまして、

その瞬間から世界の風景が変わる

ということを実感しています。

妙な話にきこえるかもしれないですが、「人の顔まで変わる」のです。
同じ人の顔まで。

これは多分、その人の顔をそれまでちゃんと見ていなかったとか、見る位置が変わったとか、いろいろと具体的な理由は考えられそうですが、いずれにしても、生きてきた 50年位のあいだに、繰り返しそういう経験をしていて、そのたびに、自分の世界は変化してきました。


そういえば、先日の In Deep の

世界中で報道された「火星のフラッシュ」で飛び交う議論。しかし、「妖精の登場」には冷たかったこの世の中

という記事に「妖精の写真」が出てきますが、私はああいう話をあまり不思議だとは思いません。

これは妖精の存在の方の話ではなく、つまり、「見えなかったものが見えてくる」ということについてです。

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▲ 上の記事より。


見えなかったものが見えてくるというのは、何か新たに登場してきた、とか、隠れていたものが出てきたとか、ではなく、もともとこの世にあるものが「認識された」というだけのことだと思っています。

その例の私の場合を具体的に書くと馬鹿みたいなので書かないですが、そういうことはよくありました。

2008年頃とか、震災のあった 2011年頃も多かったです。

個人的には、むしろ平和な時より、危機感の強い時(個人的でも社会全体でも)のほうが「美しいものを初めて認識しやすい」傾向にあります。そういう意味では、これからの世の中では、今までよりもさらに強い「内部の価値観の移行」が進むのではないかなあと思ったりもしています。

そのたびに多くの人々の「自分が住んでいる世界が変わる」わけです。

これがある意味での「進化」なのだとしたら、たった数十年の人生でも、人間は場合によって、それなりに進化できるものなのかもしれないです。


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posted by noffy at 15:52 | ペアである自分

2014年04月05日

単なる心象的な風景変化に「フェイズの変化」とつけてみたり

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▲ アンドレイ・タルコフスキー監督の 1979年のロシア映画 ストーカー より。「ゾーン」と呼ばれる「訪れた人の心の奥底を物質化する場所」に行く男たちの話。その場所の風景は、心象と共に変化します。その風景が大好きな映画でした。内容は難解過ぎて理解不能でしたが、サーチしながら好きな光景だけを見ていればOKでした。




最近は、少なくとも自分について書く時には、オカルト的なことやスピリチュアル的なような表現を使うのがあまり好きではないのですが、ここ数日間くらいなのか、もう少し長いのかわからないですけど、

「新しいフェイズに入ってるっぽい」

という感覚があります。

フェイズ、なんていうカタカナを使うのも妙なんですが、この Phase というのは、辞書では、


1. (変化・発達の)段階; 時期.
2. (目または心に映る変化するものの)相,面
3. 【天文】 (天体の)象(しよう); (月の)相,位相
4. 【理・電】 相,位相,フェーズ
5. 【生物】 相




というようなことになっていて、「新しい段階」というのも何か違うし、「位相」なんてのも大げさだし、そんなわけで、「フェイズ」というような言葉を使ってみたりしているわけですけれど、今のこの感覚は、2010年か 2011年頃にも感じていたような感覚で、「どんなのか」と言われても、よく書けないですが。

曖昧ながら説明しようと試みると、上で「オカルト的なことやスピリチュアル的なような表現を使うのがあまり好きではないのです」とか書きながら、結局、そっち系にしか聞こえない響きとなってしまうかもしれないですが、要するに、

「風景が変わる」

のですね。

別に、建物が消えたりとか、そういう意味ではなく、物理的に何も変わるわけではなく(当たり前だ)、ほとんど心象的な話ではあるのですけれど、この

「あ、フェイズが変わった」

というのは以前にもやや感じたことがあって、曖昧ではなく、明確に感じられるものでした。しかし、この2年間くらいはそういうのが全然なかったので、久しぶりの感覚でもあります。まあ、ぶっちゃけて言えば「心象」ということは、実は現実は何も変わっていないということでもあるんですけどね。

そういえぱ、これは、少し前に書いた、

インド系アンビエントの中で咲いた夏の花インパチェンス

の頃からのことのように思います。

インドの音楽か、インパチェンスの花が効いたのですかね。


あの時はひとつだけ花が咲いていたインパチェンスは、冬の保存用の 100円ショップの下のような鉢に入れていました。

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インパチェンスには、「九谷焼の鉢買ってやるからな」と言ったものの、その後、九谷焼の鉢は無理でしたが、多少は質感のいい鉢に植え替えました。 

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関東は暖かいですが、実家のある北海道は場所によっては吹雪いているそう。
いくら北海道でも4月に吹雪くのはものすごいですね。

母などは、

「世も末だわ」

と言っていましたけれど、これで夏は夏で暑かったりするんでしょうか。


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posted by noffy at 14:09 | ペアである自分

2014年03月21日

奇跡的な美しい瞬間……もあることにはあったなあと

最近は、すでに「人生の思い出巡り」の行動に出ていて、好きだった音楽を集めたり、昔好きだった映画を中古なんかで買ったりしています。


今回は単なる日記なんで、文中に、ここ1、2週間で買った DVD やビデオの写真とタイトルをほとんど意味なく唐突に挿入してみようと思います

文字だけだと見てて飽きますしね。



リキッドスカイ(米国 / 1982年 / 監督・音楽 スラバ・ツッカーマン)

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▲ 学校を中退した頃に東京吉祥寺の映画館で見て、内容もまあまあいいですが、何よりその音楽に惚れ込んだ映画でした。フル映像は YouTube にありますが、英語音声・スペイン語字幕です。



以前の記事に書いた、古くからの友人が亡くなってからずいぶん経ちますけれど、あの事実以来、

「オレはいつかなあ」

と、やはり思うのですね。



ザ・ガーデン(英国 / 1990年 / 監督 デレク・ジャーマン)

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▲ 素晴らしいのは音楽ですね。フル映像が YouTube にあります。英語ですが、台詞がわからなくても、理解に影響しません。監督本人がゲイだったこともあり、その心情を反映している映画らしいんですが、 Wikipedia によれば「この映画を作成していた時にエイズによる死に直面していた」のだそう。
享年 52歳。




実際、私なんかはもう 50で、10年以上も健康診断なんて受けていないし、体がどうなっているかよく全然わからないですし。



続サラリーマン忠臣蔵(日本 / 1961年 / 主演 森繁久彌)

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▲ これは30年くらい前、深夜のテレビでやっていたのを見たことがあり、「もう一度見たい」と、ずっと思っていました。最近 DVD を手にしました。これは YouTube にないんですが、前作「サラリーマン忠臣蔵」の予告編が YouTube にあります。



元女流棋士の林葉直子さんが「重度の肝硬変を告白」というような芸能記事が最近ありましたけれど、その中に、林葉直子さんの言葉として、

「飲酒の量が増えた。ワイルドターキーを1日1本飲んでいた。飲み過ぎですね」と話した。


とあるんですが、私はこの 15年くらいはそのくらいの量は日常ですしね。



不思議惑星キン・ザ・ザ(ソ連 / 1986年)

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▲ 当時、近所のビデオレンタル店に置いてあり、ソ連映画の楽しさを初めて知った映画でした。フル映像が YouTube にありますが、ロシア語です。



まあ、お酒に関しては遺伝的なものはあって、父親とかその兄弟だとか、祖父だとか、みんな大酒飲みで、父親なんて、そろそろ 80歳に近いんですけど、今でも毎日飲んでいて、しかも、朝昼晩の家族と近所に住む妹夫婦の食事も作ったりしていて、元気は元気です。

ちなみに、うちの実家は私の小さな頃から、父親が夕食を作るのが普通でした。

そういうのを見て育っていたので、私にも「料理は男性がするもの」という考えが自然にあります。



狂い咲きサンダーロード(日本 / 1980年 / 監督 石井聰亙)

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▲ 東京に来てから名画座で何度も見ました。予告編が YouTube にあります。



体調に関しては、今、太陽活動が強いことは多くの人に関係しているはずです。

太陽活動は「人間の体液」と関係しますので、特に、脳疾患とか、心臓疾患で調子を崩したり倒れたりする人が今増えていると思うんですよ。若い人でも。



モンド・トラッショ(米国 / 1969年 / 主演 ディヴァイン)

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▲ 二十数年前に、日本で見るのは難しかったこの映画のビデオを、知り合いが入手してくれまして見ました。「ゴミ映画ってこういうことを言うのか」と初めて知った作品でした。フルムービーが YouTube にあります。英語ですが、これも台詞とかはどうでもいい映画です。生理的にきつい描写もありますのでご注意を。



とはいえ、体調の方の不安感はそんなに強くなくて、それよりも、


「自分はどんな人生を生きてきたかなあ」


と、満足な思い出や不本意な思い出などを振り返ったりしていますけれど、圧倒的に「不本意」が多いですね。



最後の晩餐(フランス / 1973年 / 主演 マルチェロ・マストロヤンニ)

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▲ 23歳の時にこの映画に刺激を受けて、脚本を書いたことがあります。フルムービーが YouTube にあります。フランス語です。



いやあ、本文と関係なく写真を挿入すると、読みにくくて鬱陶しいですねえ(だったらするなよ)。


ただ、上の中で「ザ・ガーデン」というのがあるのですが、これは当時、東京の渋谷かなんかで見まして、当時の私にはワケのわからなかったアート映画なんですけど、私は「音楽」だけで覚えている部分が映画にはよくあるんです。

音楽だけでその映画を覚えている。

この「ザ・ガーデン」も、映画音楽の中に2曲くらい「死ぬほど綺麗な曲」があって、映画の内容はともかく、その後、サントラを探しまくって、ついに手にした記憶があります。

もう25年ほど前のことなんですね。

下はその音楽のうちの1曲が流れる、実際の映画「ザ・ガーデン」のシーンです。

The Garden (1990)




この映画の音楽はサイモン・フィッシャー・ターナーという音楽家が作ったもので、すべてにタイトルはなかったと記憶しています。

映画という作品全体としてではなく、こういうような「奇跡的な美しい瞬間」というものとの出会いというのは、たまーにありました。

ほとんどが偶然であるにしても。


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posted by noffy at 17:58 | ペアである自分