
最近、手当たり次第に Amazon などで本を買っていて、ほとんど古本なんですが、「一冊一冊理路整然と読んでいく」ということができない私は、手が空いた時に、その時の気分でどれか一冊手に取り、すでに読んだページ以降の適当な場所を開いて、10分くらい読み、また手が空いたら別の本を・・・という、実にいい加減な読書方法なのですが、しかし、それだけに、パッと目にしたフレーズが忘れにくいというものがあります。
今日、パッと開いて目にした部分で、とても「なるほど」と思ったのは、下のフレーズでした。
神とか、真理とかいうものがわれわれの「外」にばかりあるものならば、神とか真理とかに従うということは、われわれ自身が「外」から縛られることになりますので、われわれは決して自由になれないのであります。
神とか、真理とかいうものが自己の「内」に埋蔵されている神性であるからこそ、神に従うということ、真理に従うということが、自己に埋められている神性をのびのびと外に出すことになるのであります。
これは、谷口雅春の『生命の実相』からですが、この、
> 神や真理が私たちの「外」にあるのなら、私たちは決して自由になれない
ということは、以前からそんなようなことを思っていたこともありますが、現実には、さまざまな宗教では、たとえば、その宗教の聖典などを読めば、このことはどこかに必ず書かれてあることだと思うのに、「その宗教を伝えている人がそれを大きく言わない」というところに問題があるような気がしています。
世界中にある多くの宗教の多くの信者たちの中の多くが、
> 神は「外」にいる
というような概念を持っていると思うのですよ。
これでは、宗教を信仰すればするほど、自由になれない。
神(あるいは真理)は、「自分の内部にいる」と考えなければ、どこまでも「外部の神」に精神的に縛られてしまう。
上の文章を書いている谷口雅春も新宗教の代表ではあるわけですけれど、「人間と自由」という問題と、「宗教と自由」ということについて、漠然とそう思ってはいたことですけれど、上の部分は、文字として読んで刮目した部分ではあります。
もっといえば、「人間は神や天使そのもの」ともとらえられるような表現を、18世紀のスウェーデンの科学者であり、神学者であり、神秘主義思想家のエマヌエル・スヴェーデンボリなんかは、1758年の『宇宙間の諸地球』に書いています。
こんな下りでした。
『宇宙間の諸地球』の中の章「主が我々の地球に生まれることを良しとされて、他の地球に生まれることを良しとされなかった理由」より
どのような地球の者であっても、神を人間の形の下に承認し、拝する者はすべて主から承認されて、受け入れられることを知らなくてはならない。
なぜなら、人間の形をとられた神は主であられるからである。
そして、主は人間の形をした天使の形をもって、諸々の地球に住む者たちに現れたもうゆえ、それらの地球から来ている霊と天使たちとは、神は実に人間であられることを、我々の地球の霊や天使たちにより告げられると、その聖言を受け入れ、それを承認し、それがそうであることを喜ぶのである。
上に述べた理由に、以下のことを附加することができよう。
すなわち、我々の地球の住民や霊たちは、かの最大の人間の中では、自然的な祖となる感覚に関係しており、その感覚は最も外なるものであって、そこに生命の内部が終わっており、またそこにそれをその共通の基底として依存しているのである。
この中の、
> 神は実に人間であられる
というあたりなどもそうですし、あと、谷口雅春と似たようなことも書いてます。
> その感覚は最も外なるものであって、そこに生命の内部が終わっており、またそこにそれをその共通の基底として依存している
という異常なほど難しい書き方ですが、当時は「神と人が同じ」だなんて書くと、どうなるかわからない時代ですしね。
これは、「私たちの外部は実は、私の内部で終わっていて、そして、これは人間同士の共通の場所でもある」というようなことだと思います。「人間の内部に神がいて、そして、その人間自身は神である」というような意味でも構わないかとも思います。
実際にそれが正しいか正しくないかは別としても、そう思えば、今よりは周囲の人たちへの感謝や尊敬の気持ちが少しはアップするのじゃないかと思えば、悪い考えではないとも思います。
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