
先日の In Deep で、
・タイのクーデターから知った「ニルヴァーナ」(入滅)の意味
2014年05月23日
というような記事を書いたのですが、この「ニルヴァーナ」というバンドが大きく世の中に露出してきたのは、1991年以降だと思いますが、その頃、私は人生の中で最も音楽を「聴いていない」時期でした。
演劇活動も一段落ついて、どう表現していいのかよくわからないですが、「何だかもうどうでもいい時期」だったのです。何をする気にもならないし、何にも興味が湧きませんでしたし、体調もずーっと悪いままでした。
年齢としては 30歳前後くらいで、もう十分に大人ではあるんですが、朝から晩までゲーセンやパチンコ屋で過ごしたり、ほとんど無為に毎日を生きていました。
完全に人生に対しての意欲を失っていました。
その頃、一緒に演劇をやっていた人たちは、私を含めて、ほぼ全員が東京の西荻窪という町に住んでいて、仕事場まで西荻窪にありました。よく一緒に飲んでいたのですが、1軒目はチェーン系居酒屋などに入ることも多かったのですけど、その日は西荻窪の「つぼ八」というチェーン店で何人かで飲んでいました。
現在の西荻窪にはその店はもうないですが、その店にはところどころにモニターが吊されていて、そこでヒット曲などが流されていました。
そして、ある曲の「イントロと声」が聞こえた瞬間、私は、「え?」とモニターのほうを見ました。
流れていたのは下の In Bloom という曲のプロモーションビデオでした。
Nirvana - In Bloom (1991年)
しばらくこの曲と「声」を呆然として聴いていました。
そして、曲が終わった後、一緒にいた友人に、
「このバンド売れるよ」
と私が言ったら、
「すでに超メジャーですよ。オカさん、ニルヴァーナ知らないんですか?」
と友人に言われました。
私 「この(ボーカルの)声は神様の声そのものだよ」
相手 「そうですかね」
私 「こんな魅力的な声、ロックを聴いて以来最高レベルかも」
そして、その頃から少しずつ、また失いかけていた音楽への興味が戻っていったというような経緯があります。

▲ 私が今でも着ている Nirvana のTシャツ。どこで買ったのだか。昔はよくタイでTシャツ買ってましたけど、タイじゃなさそう。
上のビデオを初めて見た2年後くらいにこの「神様の声」だと私に思わせたボーカリストのカート・コバーンは自殺してしまいます。
考えてみれば、今から20年前なんですね。
それにしても、上の In Bloom は、ニルヴァーナの代表曲というわけではないのに、再生回数が2600万回を越えているあたりが、今でも根強い信奉者がいることを思わせます。
「神様の声」に対して、「魂の声」だと私が後になってから思ったボーカリストがいたバンドがあって、それは、ジョイ・ディビジョンという 1970年代のイギリスのバンドでした。
この私が「魂の声」だと思った声の持ち主だったイアン・カーティスという人も、1980年に若くして自殺しています。
ジョイ・ディビジョンの曲は、若い頃より、年をとった最近のほうがよく聴いています。下の曲など、魂の声そのものだと今のほうが思います。下のプロモは後に作られたイアン・カーティスの伝記的映画のもので、本人ではありません。
No Love Lost - Joy Division (1978年)
「神様の声」のカート・コバーンは、双極性障害(昔でいう躁鬱病)でした。
死因は自殺。享年27歳。
「魂の声」のイアン・カーティスは、てんかん発作を持ち、うつ病でした。
死因は自殺。享年23歳。
こんな人たちの音楽を聴いて生きて、しかも自らもビョーキ持ちの私が 50歳まで生きてしまっている自分自身に恥ずかしさもおぼえますが、しかし、それもそれでまた仕方がないことでもありそうです。
ところで、最近、近所のユニクロに、ニルヴァーナのTシャツがあることに気づきました。ニルヴァーナのロゴは、下のこれ

なのですが、このロゴをあしらったTシャツがあったのです。
下はユニクロのサイトからの写真ですが、胸元に正規のニルヴァーナのロゴが印されています。

「へえ、ユニクロでねえ・・・」
と思いつつ、結局このTシャツを買いまして、最近着ています。
しかし、このTシャツ、胸元にロゴを入れているので、上にシャツを羽織ると、「単なる黄色いラインのあるTシャツ」ということになってしまい、それが悩みといえば悩みです。
まあ・・・Tシャツの悩みはさておき、若い時から私に生きる糧を与えてくれた表現者の中には、上のふたりのように本当に早くに亡くなってしまった人もいますけれど、そうではない人もいて、要するに、別に「死ぬことで人の価値が上がるでも下がるでもない」ということは言えそうで、肉体的な死に関しては「あるがままにまかせる」しかない部分はありそうです。
抵抗しても仕方のない、陳腐な表現でいえば、運命というものに思えます。
何はともあれ、今生で知り得たこれらの素晴らしい価値観は、仮に未来世というものがあるのなら、その価値はさらに成長して続いていくものだと思います。
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