
▲『天國のをりものが 山崎春美著作集 1976-2013』。
JAZZTOKYOというサイトの「伝説のベールが取り除かれ、80年代カオス文化の真相が明らかになるか 時を同じくして出版された80年代=変革の時代の3人の立役者の著作」というページで、その頃のカオス音楽家として有名だった、竹田賢一という人、非常階段というノイズバンドのリーダーだったJOJO広重という人、そして、山崎春美の3人の著作をひとつのページで語っているのでした。
何が「的確な書評」なのかというと、この文章を書いている方が山崎春美と同時代にその空間に生きていて、彼の文章やパフォーマンスも直接経験しているからです。
特に、山崎春美が 1982年におこなった「自殺未遂ギグ」は、実際に救急車で運ばれるまで自分の体をナイフで切り裂いたライブだったのだそう。「だったのだそう」というのは、私はその頃はまだ高校生で、北海道にいました。
なぜ、そんなライブのことを知ったのかというと、当時はサブカル雑誌だった月刊宝島の記事を呼んで知ったのでした。
しかも、その号の宝島では、「山崎春美がライブ当日に着ていた血まみれのTシャツを読者プレゼント」ということを「山崎春美本人の希望により」ということで読者プレゼントをしていました(苦笑)。
そのイベントについて、 JAZZTOKYO の方は、
山崎が1982年に企画した「自殺未遂ギグ」では、室内アンサンブルが葬送曲を演奏する中で、自らの身体を包丁で切り刻み流血するパフォーマンスを披露、その現場を目撃してしまった私の心に大きなトラウマを植え付けた。
と書かれています。
私は、そんなことが行われていたということを宝島の記事で読んで、
「東京って何でもアリなんだなあ」
と、しかし、結構、無機質というか無感動な気持ちでその記事などを眺めていました。
上のライブは東京でのものでしたが、山崎春美は大阪出身の人で、関西人なんですが、そうしましたら、京都では JOJO広重という人が、非常階段というノイズバンドで、ムチャクチャなことをしているという話も飛び込んできました。そのムチャクチャぶりはもう、本当にムチャクチャで、その写真はやはり「宝島」で見たのですが、
「京都も何でもアリなんだなあ」
と、すでに十代の後半だった私は、高校を出た後の進路に迷ったものでした。

▲ 当時の宝島に掲載されたのはこの写真でした。1981年のライブ。経歴などは、 JOJO広重 - Wikipedia などにあります。
非常階段についてはずいぶん以前に音楽サイトに、
・非常階段の新宿LOFT 「極悪ライブ」から始まった概念
という記事に書いたことがあります。そこに上の 1981年の時のライブ映像もありますけど、気分が悪くなる方のほうが多いと思いますので、動画は見られない方がいいです。
少し後ですけれど、 1980年代、やはり大阪からは別人物の話題が飛び込んできました。
山塚アイという人が、「大阪のライブでチェーンソーを使って、誤って自分の脚を切り落としそうになった」という話なども飛び込んできまして、
「大阪も何でもアリなんだなあ」
とも思っていました。

▲ 1985年の山塚アイのハナタラシというバンドの東京でのライブ。ライブハウスの壁を破壊して、ブルドーザーで突っ込んできた様子。ブルドーザーを運転しているのが山塚アイです。経歴などは、 山塚アイ - Wikipedia にあります。
その大阪の山塚アイが、1990年代になり、ロックミュージシャンとして、日本で不動の人気を固めていく中で、アメリカに進出したことに関しての記事も音楽サイトの、
・うお座の地球に現れた「完全な自由」 - BOREDOMS
というものに書いたことがあります。
実際、 1970年代の終わり頃から 1980年代の初めまでは、とにかく関西のミュージック・シーンはムチャクチャで、本当にカオスだったという感じがします。その多くが関西の学生たちによるものだったことから、私は京都に行くことも考えたんですよね。
私は結局、東京に来たんですけれど、
「とにかく行かなければ」
と思わせ続けさせていた原動力を作り出していた部分に関して、 JAZZTOKYO の方は、山崎春美について以下のように記しています。
80年代カオス・カルチャーの担い手らしく、したり顔で大言壮語を喧伝する(山崎春美の)饒舌な文章の大部分は、空虚なロジックと無意味なレトリックの垂れ流しだが、独特の美意識に貫かれた流麗な文体が読む者の心を捉えて離さない。
当時山崎のマインドコントロールに似た魔性の文章に惑わされた少年少女は相当数いるに違いない。かく言う私もそのひとりである。
そうなんです。
山崎春美の魔性の文章に惑わされた若い人は確かに結構いたんです。
私のような人たちが。
それから30年経ち、このようなカルチャーはほとんど消えてしまいました。
しかし、ふと思うと、カルチャーそのものが消えようが何だろうが、今、現に私や、あるいは上のサイトの作者の方などもこのようにインターネット上でそれを書き残しているじゃないか・・・ということにも気づきました。
「記憶」という存在と、「インターネット」というツール。
私の「自分の過去を考えるモード」はまだ続きそうです。
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