
▲ 映画『未来世紀ブラジル』(1985年)のオープニング。ダクト(管)のテレビコマーシャルのシーンから始まります。
動かないことを学ぶのはいいけれど
4月くらいから6月くらいはかなり考え込んでいました。
そのうちなんだか次第に「無気力」になってきてしまって、クレアも音楽サイトも更新をやめてしまって、どちらもそのまま結構な期間が過ぎています。
最初は、「今いる場所から動いたり」、あるいは、「もう少し人と会ったりアクティブになってみようか」と思っていたりしたのです。
しかし、最近はその両方とも「違うのだろうなあ」と考えるようになってきています。
過去に In Deep などに記した中で、ウェブ・ボットのクリフ・ハイのエッセイに下のようなものをご紹介したことがありました。地獄の夏の意味という記事からです。適当に略しています。
ウェブボット 2009年7月23日配信 巻末エッセイより
われわれはこれから地獄のような混乱期に入る。だが、だからといって、個人の環境が同じく地獄であるとはまったく限らない。自分の足下を見つめ、そこから環境を変えてゆきさえすればよいだけなのだ。
いまわれわれはかつて経験したことのない歴史的な転換期に生きている。社会的、環境的な変化の大波はわれわれ個々人をいやおうなく洗い流し、新しい歴史の地平へとつれ去って行く。
ここで問題となるのは、この大波をいかに避けるかではない。
そうではなく重要なことは、反対にいかに今いる場所に止まるすべを学ぶのかということである。
また、いっぽうで全然関係ないですが、日月神示の「月光の巻 第26帖」という中には下のような記述があるのだそうです。
月光の巻 第26帖より
現状を足場として進まねばならん。現在のそなたのおかれていた環境は、そなたがつくり上げたものでないか。
山の彼方に理想郷があるのではないぞ。
そなたはそなたの足場から出発せねばならん。
よしそれが地獄に見えようとも、現在においてはそれが出発点。
それより他に道はないぞ。
書かれた国も、その時代も違う上の文章の内容はある意味でほとんど同じで、「大事なことは、いかに自分のいる場所にとどまるかという方法を学ぶこと」だということを言いたいようです。
まあ、最近はそれはそうだと思うようにはなっています。
なので、場所はここでいい。
場所はここでいいとして、「ここでどのように(生きる)?」ということが、やはり何だかわからないのですよね。
先日の子どもが倒れた時の記事に書いたのですけれど、基本的に現代生活では「露出しないこと」が比較的大事なような気はするのですが、しかし、現代の一般生活をしている中では、自分の存在をわかりにくくすることさえ大変であることに気づきます。

▲ 米国のナチュラル・ニュース より。
ここ、そして、ここじゃない場所(すべて知られている私たちの存在)
たとえば、あなたが友だち、あるいは恋人のように極めてプライベートな相手とふたりで「スマホ」で写真を撮るとします。機種や通信会社は何でもいいです。
今ではどこでもありふれた光景。
恋人同士なら、その写真はたったふたりだけの秘密の行動の記録のはず。
しかし。
実はスマホで写真を撮影している時点で「たったふたりだけの秘密」というものは、そこには存在していないことに気づきます。
写真を撮影したその瞬間に、その写真のデータは暗号化され、あるいは携帯の OS の企業のサーバの中に収められる。あるいは、同時にどこかの国のサーバの中に。あるいは、さらに多岐に渡って「たったふたりだけの秘密の時間と秘密の行動」の様子は収められます。
基本的に常時接続の(起動している時は常にインターネットに接続されている)スマホでは上のようなことになっているというのが現代では一般的な知識となっています。
しかも、今のスマホには GPS 機能がありますので、
・撮影した時間
・撮影した場所
という基本的な本人の位置情報も同時に収められます。
もちろん、その前段階として、日本などの場合は携帯やスマホも含めて、電話などの持ち主情報は厳密で、
・名前
・住所
・電話番号
・クレジットカード番号
・ ID (免許証番号や健康保険証番号など)
などが、常に同時にデータとして送信されるということにもなります。
そういう意味では、上のほうに書いた「恋人同士の写真の撮影」というのは、「たったふたりだけの秘密の時間と秘密の行動」というより、むしろ、
「私たちは全世界にふたりの愛する姿を公開しました」
という行為のほうに近いようにも思います。
それはそれで晴れがましいような感じでもありますが、しかし、問題は「比較的多くの人がそのことを知らない」ということなのかもしれません。
スマホだけではなく、パソコンの世界にはもっと以前からある話です。
結構面倒くさい話ですが、興味のある方は「ADVAPI.DLLを無効にする」という記事に、15年以上前から、すべての Windows 搭載のパソコンに外部から遠隔アクセスできるシステムが組み込まれていたことに関しての翻訳が掲載されています。
ブラジルそのままの世界
まあ、いろいろと厄介な世の中ではあるわけなんですけれど、しかし、私は若い時から、いろいろなSF映画などを見ていて、たとえば、とても好きだった映画のひとつである1985年の『未来世紀ブラジル』などは、まさしく、今のような世の中を描いていて、実は違和感はないのですけれど(なので、私の絶望は社会に対してというわけでもないです)。
『未来世紀ブラジル』のあらすじは、テロばかり起きている「未来のどこかの国」の社会の中で「人々の情報を統制する省庁」が最も権力を持つ世の中となっている社会での「ラブ・ストーリー」です。
未来世紀ブラジルの Wikipedia を見てみますと、「テーマ」という欄に下のようなくだりがありました。
未来世紀ブラジルのテーマは、
「ぶざまなほど統制された人間社会の狂気と、手段を選ばずそこから逃げ出したいという欲求」
なのだそう。
この
・ぶざまなほど統制された人間社会の狂気
と
・手段を選ばずそこから逃げ出したいという欲求
は、今の時代にまさに同居している感じがしたりします。
そう考えてみれば、今の世の中というのも、
「好きな映画の世界が現実化しただけじゃん」
とも思うのですけどね。

▲ DVD のジャケットなどにも使われている『未来世紀ブラジル』のポスター。主人公が毎晩見る夢は、騎士になって未来の管理社会から逃げ出す内容。そして、夢の中での理想の女性と恋をすること。
そんなわけで、何もまとまってないですが、最近日記的なものはあまり長く書けないですので。
更新は遅いと思いますが、たまに日記も含めて書くかもしれません。
まあ、しかし、最近やや持ち直しつつもあるかもしれないですので、音楽などにしても、少し元気な方向に戻れればと思います。