2013年04月16日

ノンレム睡眠の崩壊時にまぶたの裏に写る光景

先日の記事で、「まぶたを閉じた時にそこに浮かぶ光景」というものを適当に作ったものを載せたりしていたんですが、ちょっと思うところもありまして、「真面目に作ってみよう」と作りました。

実際には、まぶたを閉じた時に浮かぶ光景には色彩がほとんどないんです。つまりモノクロなんです。そして、常に光景のどこから光がフラッシュしている。でも基本的には暗いわけで、その奥の穴のようなところの向こうに風景のようなものが見えるという感じでしょうか。

そのイメージで作ってみました。




音は適当なんですが、実は人間って、いろんな局面で頭の中でなんだかよくわからない音が頭の中で鳴っていたりするものだと思うんですよね。

擬音で「がーん!」とかあるじゃないですか。

ああいうものは確かに人間の内部では感じているから擬音として存在しているわけで、そういう「音のようなもの」は、特に意識がもうろうとしている寝入りばなとかには上のようにいつも鳴っているものだと思います。


他人には聞こえない自分の中だけで聞こえる音。

あるいは、自分だけに見える風景。

完全な自分だけの世界(だけど全員と共有している)。



・・・というものを全員持っているのだと思います。


眠っている後に見る夢には「色」がついていて、上のように曖昧ではないですし、もっと現実っぽい。

なので、こういう曖昧な「視覚」を見るのは「眠っていない時」だけなんです。

まぶたの裏に写る光景が現実離れしている。


どの記事に書いたか覚えていないんですけれど、人間が「内部に光を持っている」というのは、真っ暗闇の中でも、冷静に視界の中を探っていると、光が存在しているのがわかると思うのですよ。



小さな頃から「どうして、目を暗いところで目を閉じているのに光のようなものが写るのか」ということは疑問でした。


でも、それは簡単なことで、人間は内部に光を持っている


即物的にいえば、脳か神経かの器官に目ではないところから光を感知できる機能を持っているのだと思います。以前、よく松果体のこととかを書きましたけれど、ああいうたぐいのもかもしれないですし、違うかもしれないです。


過去記事を探してみますと、

ペアである自分(3) 人間の「見る」という行為
 2011年01月28日

というものの中にもそのあたりのことが書かれています。

読むと、その当時はやけにオカルトくさいことを書いていることに気づきます。


さらに遡ると、3年以上前に、「左脳の未来」という記事を書いていて、そこに「パニック障害の時のビジュアル」について書いてあるんですね。

自分でも興味深いので抜粋しておきます。
今はパニックに加えて、強力な睡眠障害も抱えていて、視覚の問題はさらに混迷してきております。


独立するビジュアル
左脳の未来 (2010年03月10日)より

二十代の始めの頃にパニック障害になったことは何度か書いたことがありますが、パニック障害には、いわゆる医学書や医学サイトに書いてあるような教科書的な症状はもちろんありますが、人によって様々という面はあって、共通項としての「恐怖」や「パニック」というようなことはあるかと思いますが、多彩だと思います。嬉しくはないけど「個性」ですね。

で、もっともひどかった、23歳くらいの時ですが、パニックになりそうになる時に、「頭にあるビジュアルが何であるか判断できない」という状態に陥ることがありました。

これは説明が難しいですが、

・夢の風景
・現実の風景
・映画などで見た風景
・過去に実際に見た風景
・記憶の中の風景
・想像の風景(現実にはない風景)


などのいくつもの形態と時間軸のビジュアルが人にはあると思っていただければいいと思うのですが、「この判断の同時性が切れる」わけです。

記憶の中には常にいろんな現実や想像のビジュアルがあるのと平行して、目から視覚としてもビジュアルは入っていきます。たとえば、今、あなたがパソコンでこれを読んでいるとすると、そのパソコンが見えたり、横に置いてある花やテレビが見えるでしょうが、実はそれはずーっと「視覚の片隅」に入っているはずですが、ふだんは気にしないで「見ないことになっている」わけです。

意識して、「横にテレビがある」と認識したときに、それを「見た」ということになると思います。

このように、視覚には実はあらゆるビジュアルが常に入り続けているわけで、本来なら、全部認識しても不思議ではないけれど、いろんなことを同時に集中しては人間は何もできなくなるわけで、実際には必要なものだけを見るということになっています。

同様に頭の中にも常にビジュアルが存在します。記憶や経験のビジュアルは視覚と平行して、常に頭の中にあるはずです。

たとえば、小説を読みながら、「その架空の光景を想像したり」する。
それを想像しながら、過去の現実の記憶の光景が浮かんできたりもする。
その間にも視覚からは現実のビジュアルが入ってきている。

というように、常に圧倒的な量のビジュアルが視覚から、あるいは記憶の中の情報として存在しているわけですが、これを的確に処理できているのは、多くは左脳(あるいは左脳的な役割)で判断して、整理して、必要なものを取り出す。

だから、人は冷静に物を見て、想像できるみたいです。

「みたいです」と書きましたが、この左脳のサポートが切れると、どうなるかというと、「ビジュアルが独立して映像として流れていく」のです。また、「視覚に入ったビジュアルがすべて同時に情報として入ってくる」のです。

うまく説明できないのですが、左脳的に大量のビジュアルの判断を思考で追いつこうとするのですが、頭にあるイメージに説明をつけることができないのです。

これは恐ろしいですよ。

全部、情報として入ってくるのです。

部屋の壁も貼ってあるポスターもお酒の瓶も、視覚の中にある情報が処理されずに平等に全部展開される。しかも、そこに想像上のビジュアルも展開されるわけです。

こわいのは、「頭に今ある映像に何の説明もつかないので、その映像の判断ができない。あるいは遅れる」のです。冷静には「見えているものが今見ている現実である」こと程度はわかるのですが、それへの判断が少し遅れるわけです。

ビジュアルの情報量というのはものすごく多すぎて追いつけない。多分、一瞬で何百何千というビジュアルが人間の頭と視覚上では展開されています。それを的確に処理している「脳」というのはスゴイものですが、その時にはそんなふうに感心する余裕もなく、アセるだけです。

特に思うのが、「こりゃ頭がイッちまったかな」というやつですね。
要するに、自分は発狂してしまったのではないか、ということに対する恐怖です。

しかし、一方で、「自分は狂ったのではないか」と冷静に自分を判断している理性的な自分はいるわけです。そして、そのことを人にも伝達できる。必ずしも、そういうときにひとりのわけでもなかったですから、一応、場はつくろわないといけない。つまり、左脳は機能しているのです。ただ「脳の中の連携が切れた」感じなのです。

ちなみに、面倒くさいんで、当時、周囲の人たちにもパニック障害のことはカミングアウトしていて、「ちょっと具合悪いからタイム」というようにやっていました。このあたりは気楽にやらないと生きていけなかったですし(笑)。

まあ、少し時間が経てばよくなる。あるいは、お酒を飲んでリラックスすれば良くなりました。お酒は、当時の私には変な安定剤よりも効いたものでした。なので、当時は大事な用事の時になればなるほど、朝から酒を飲んでから行ったりしていました。

それはともかく、そんなことが続いた期間は長くはなかったのですが、今にして思うと、ビジュアルを恐怖なしに判断できていることは幸せなことなのだなあと思います。




ここまでです。

いずれにしても、ここ最近は起きているうちの半分くらいは朦朧としていて、どうもいろいろと、はかどらないですね。


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posted by noffy at 17:51 | 現世人類としての最期に