
▲ ヴォイニッチ手稿にでも出てきそうな奇怪な植物ですが、実は冬越ししたニチニチソウ。何とか冬を越しました。今年は植物たちの冬越しがうまくできました。寒かったんですけどね。
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前回の記事で、
現実より幻想の部分が肥大してしまっているんですよ。
科学もイデオロギーも。
というようなことを書いたんですが、なんだか「曖昧なことを書いている」と思われる場合が多いかと思いますので、注釈というわけではないですが、ちょっと書いておきますね。
たとえば、もっとも身近な部分で「現実より幻想の部分が肥大してしまっている」のは「お金」です。
私たちなどの大人は理論的にはそれが幻想だとわかっていても、でも、どうにもならない。お金がないと生活できないから。それは社会システムの上の幻想であって、現実とは関係ないとわかっていても、否定することはできない。
でも、少なくとも私たちは「この世」が生まれた時からお金があるとは思ってはいないと思います。
ところが、うちの子どもなどもそうですが(私の子どもの頃もすでにそうでした)、世代が進むにつれて、
> お金は地球ができたころからずっとある永遠の価値
のようにとらえているのですよ。
これね、大人のせいでもあるんです。
たとえば、今でも彼の祖母、つまり奥さんのお母さんなんかも「たとえ1円でもお金を粗末にしてはいけません」みたいなことを子どもに言うのですけど、そんな言葉には実際には意味ないのですよ。
たとえば、ハイパーインフレになる。
パンひとつが 15兆6000億円とかになる。
そこでは意味をなさないわけです。
言うまでもなく、「お金」というか、経済そのものが幻想であることはおわかりだと思います。
前回の記事で書いた「幻想」とはそういう意味なんですが、現在の社会の中で隅々にまで行き渡っているその幻想の多さ。
でも、私が最も「イヤだなあ、社会は」と小さな時から思っていたのは、そういう難しいことでもないです。
日本で6歳になると教わることは「敵を作れ」という概念
小学校に入ると、体育でも他の分野でも「チーム」という概念が適用されます。
そして、チームごとに争うという概念も適用されます。
それまでの彼や彼女の人生にはなかった「敵を一掃する」という概念が唐突に6歳くらいから教え込まれるようになります。
特に体育などでは顕著で、最終目標は「相手を負かすこと」です。
私たちは今でもスポーツなどで相手が負けることに熱狂している日々を過ごしていますが、それの始まりはこの6歳くらいからの教育にあります。
そして一方で、いわゆる「民主主義」というものでは、「論争」で物事を決めていくということや、「多数決」なんていう恐ろしい概念も存在します。
(「多数決」は多数以外の価値観を消すということ)
論争はどんなに知的なものであっても、「自分」と「その敵」という構図です。
これらすべての前提としてある、
「敵を作れ」
という概念。
こんなことは、本当は中学生くらいで気づくべきなのですが、進学などで従順に学校に従っている場合は「気づいても気づかないように生きる」ということになり、気づいた人たちはただ悪くなる傾向ににあるようです。
私は,中学や高校の頃、いわゆる悪い人・・・というか、ドロップアウトした十代をたくさん見てきた青年時代を過ごしましたが、多くは実はとてもクレバーでした。
わたし 「なんでそんな頭いいのにあんなクソ学校行ってんの?」
友人 「楽だし」
わたし 「ああそうか」
友人 「オカはどうすんの?」
わたし 「オレは19歳までには死ぬだろうし」
友人 「死ななかったら?」
わたし 「そんなことあるわけない。オレは十代で死ぬんだよ」
友人 「オカは死なない感じがする」
友人 「楽だし」
わたし 「ああそうか」
友人 「オカはどうすんの?」
わたし 「オレは19歳までには死ぬだろうし」
友人 「死ななかったら?」
わたし 「そんなことあるわけない。オレは十代で死ぬんだよ」
友人 「オカは死なない感じがする」
そんなことを言っていた 16歳くらいから経て、今年はもう 500歳。
あ、間違った。50歳。

▲ 私の若い時の何かのステージの写真。詳細不明。頭は空っぽ。今でもですけど。
タラビッチの言う「幻想」の概念
ところで、最近、クレアの昔の記事を読んでいたりしたんですけれど、「幻想」ということに関して、3年くらい前の記事にミタール・タラビッチという人の予言などを含めて、私の言いたいことと似ている下りがありましたので、抜粋しておきます。
・意味のなかった幻想を捨てることやスバールバルのこと
2010年03月19日
の中に、19世紀のミタール・タラビッチという予言者の言葉として、
人間の魂は悪魔にのっとられるのではない。もっと悪いものにのっとられるのだ。人間の信じているものには真実などいっさいないのに、自分たちの信じる幻想こそが真実だと思い込むのである。
ここにある、
> 自分たちの信じる幻想こそが真実だと思い込むのである。
には、「お金」も「ビッグバン」も「一夫一妻の結婚という制度(以後、禁じられる恋愛という意味)」も含まれるでしょう。
あるいは、上の記事には、2010年2月18日にアメリカの連邦ビルに小型飛行機で突っ込んで自殺したジョセフ・スタックさんという人の「遺書」の一部も掲載しています。
子供のころからわれわれは、法による統治がなくなったら、無政府状態となり社会は存在しなくなると教えられてきた。
悲しいことに、一人一人が国家のために献身するならば、国家は万民の正義の守護者となってくれるはずだとわれわれは信じ込まされてきた。
さらにわれわれは、この国には自由があり、そうした建国の父が作った原理と原則は命をかけても守る抜くべきだと洗脳されてきた。
とあり、自分が信じてきた何かが崩れた時の感情を書いています。
でも、私はスタックさんには何の同情も感じません。
冷たいようですが、
「自分を取り囲むシステムを疑わないで生きてきたあなたが悪い」
と、そう思います。
普通は若い時に気づくし、気づかないなら、一生そのままで生きるべきです。
私は小児ぜんそくで動けなかった3歳くらいの頃、この世は憎しみの対象でしかありませんでした。
でも、少しずつ「周囲の人間たちはクソでもいい人じゃん」と思うようになり、この世は少しずつ憎しみの対象ではなくなったのですが、でも、そのシステムを信用したことは一度もありません。
人の生き方は自由です。
お金とか政治とか歴史とか、曖昧なものを自分の信念として生きる方に対しては、皮肉ではなく、それはそれで立派だと思っています。
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