2013年03月12日

現世人類としての最期に(3) - 「未知」を怖れる既知の概念の住人



最近、私はウツだの何だのとよく書いていますけれど、私がどっぷりウツだのなんだのと言っていられるのも、最近は子どもが元気なせいもあるかもしれません。実は昨年の12月くらいに、いろいろと子どもと話したり考えたりして、私は子どもとの接し方をガラリと変えたんです。

以前の In Deep の記事で「人間は7歳から大人だ」とかなんて書いておきながら、思えば、うちの子どもも7歳を過ぎていたのに、親の私は干渉し過ぎだったと思い始めて、もう彼の学校生活だとか、他の様々に干渉するのをやめたんです。


el-topo-001.jpg

上の写真はその記事「365日のうちで最も奇妙に思える4月10日に知った多次元宇宙の心理学」に載せた 1970年のメキシコ映画『エルトポ』の冒頭シーン。

このシーンは、

「お前は7歳になった」
「つまり、お前は大人になった」
「オモチャと母さんの写真を埋めろ」


という父親のセリフで始まります。


私も子どももそれぞれの世界を生きるべきだし、そうしないといけないと。

それから、私はほとんど干渉しなくなり、「男性と男性」というような付き合い方をしていますが、そのせいというわけではないのでしょうけれど、今は子どもは以前とは見違えるように元気ですし、精神的にタフになりました。


さて、そんな報告はともかく、昨日、奥さんが子どもの学校のテストみたいなのを私に、

「テストの紙にこんなの書いてんの」

と見せます。

下のようなもので、余白に何かを書いています。

ps-01.jpg



「俺もいろいろ書いてたなあ」と言いながら、それを見ていましたら、

「あれ? これはなんか思い出すぞ」

と思いました。


少し拡大すると、下のような感じの絵です。


pro-01.jpg




しばらく見ていて、「あ、わかった!」と私は口に出して言い、なんだか笑いながら子どもを呼びました。


わたし 「この絵さ、植物?」
子ども 「そう。上は雨とかいろいろだけど」
わたし 「なるほど、やっぱり」
子ども 「なんで、やっばりなの?」
わたし 「似たのを見たことあるんだよ」
子ども 「何と似てるの?」
わたし 「古い本の絵」



その「古い本の絵」というのは、たとえば、下のこんな絵でした。


voi-mono.jpg




上のは実際にはカラーで、こちらのような様々な絵のある本です。



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これは In Deep でずいぶん以前に、

『ヴォイニッチ手稿を解読した』という人物の登場
 2011年12月06日

という記事で取り上げたことのある「ヴォイニッチ手稿」という古い書物です。


どういうものかというと、その時に翻訳した記事から抜粋すると、


世界で最も謎に包まれているといわれる中世の原稿がある。

それは『ヴォイニッチ手稿』と呼ばれている中世の古い文書だ。

このヴォイニッチ手稿は、何世紀もの間、専門家たちを悩ませ続けてきた。

そこには、解読できない文字で説明されている奇怪な人々や奇妙な植物のスケッチが描かれており、それを理解したものは現在まで誰もいない。そして、この原稿が誰によって書かれたものかもいまだにわかっていない。

1950年代には、米国の国家安全保障局の暗号解読の専門家たちさえもヴォイニッチ手稿の解読に挑んだが、この暗号解読のエリートたちも何年も研究に時間を費やした後に、解読をあきらめている。



というものなんですが、このヴォイニッチ手稿については、それより前の「クロップサークルやエジプトの亡霊の話題などの続編と「年代が特定されたヴォイニッチ手稿」のことなど」という記事でも少しふれていて、そこには、これまで世界中の非常に多くの、言語学者、歴史学者、暗号学者、植物学者、オカルティストたちなどが解読に挑んだ結果として、


・植物学者たちは植物についてはナンセンスであるとした。
・天文学者たちは天体についてはナンセンスであるとした。
・占星術師たちは占星術的なものはナンセンスであるとした。
・製剤の専門家たちは薬草はナンセンスであるとした。
・暗号作成者たちは暗号はナンセンスであるとした。



ということで中世から現代にまで来ているのです。


上に子どもを呼ぶ時に笑いながらとありますが、私はそれを思い出して笑っていたということもあります。

世界中の「専門家たち」が口を揃えてナンセンスだと断じた書も、子どものイタズラ書きと似たようなものわけで、ナンセンスも何もなく、「それはそういうものだ」という評価でいいじゃないの、と当時から思っていたことを再認識した次第です。

それを思って笑ったのでした。

ヴォイニッチ手稿は、現在ではすべてのページをインターネットで見られます。

Voynich Manuscript-photo gallery

にあります。

あるいは簡単に見るには、 Google などの検索でとか ヴォイニッチなどの言葉で画像検索すれば、たくさん出てきます。


上にあるような評価、つまり、


・植物学者たちは植物についてはナンセンスであるとした。
・天文学者たちは天体についてはナンセンスであるとした。
・占星術師たちは占星術的なものはナンセンスであるとした。


というようなことになった理由はとてもわかりやすくて、

「この書に描かれる何もかもが未知のものだったから」

です。


私が最近、 In Deep で「私はそれでも人類の価値観はすでに破局にあると思わざるを得ないことに関しての雑文など」として書いた、

ビッグバン理論での宇宙の誕生より古い「 145億年前の星」が観測された報道を見た日に
 2013年03月09日


にも通じる概念で、「既知」の範疇にないものは嫌われる。


既知の外・・・言葉とすれば、まさにキチ・ガイなんですが、その概念。


これからの世の中に希望が存在するとすれば、この「既知から外れたもの」というものの考え方にかかっているとは思うのです。

しかし、それは、別に奇妙な考え方という意味でもなければ、飛び抜けた考え方というわけでもないです。

「幻想ではなく事実を見て考える」という意味です。
意外に思われるかもしれないですが、「既知」という概念は実は幻想です。



世界によってはもうこの数千年前から、日本でも 1500年くらい前から「統一した概念」とそれに従うような生活というのか、「そういうような世界」が続いています。


もうそれが限界に来ているんですね。


現実より幻想の部分が肥大してしまっているんですよ。
科学もイデオロギーも。



でもまあ、変化していくような兆しも見えるわけではなく、最近は「破局の理論」みたいなことを書いているのですけれど、上の In Deep の次の記事(破局の回避という奇跡があるとすれば)では、ホイル博士の著作を引用しているんですけど、そこに極めて現実的な、「破局を回避するために、とりあえず最初としてできる単純なこと」の示唆はされているんですよ。

下の部分です。


> 過去のどの時期よりも現在は悪化している。なぜなら、高い教育レベルの過程は現在約 25年間も続くのである。 (中略)あまりにも永く子供たちは精神的な監獄に閉じ込められてきたため、そこから逃れるには遅すぎる年齢である。



これは結局、「組織的な高等教育はないほうがいい」という意味なんです。

組織的な高等教育とはつまり「学校」のことです。

日本でいえば、小学校卒業でその国の国としての教育は終わり。

私も実際に「破局を回避出来得る方法」として、人間としてできることはこれしかないと思っています。


ちなみに、これは「学問の否定」ではなく、まったくその逆で、「学問を発展させるための最後の手段が、組織的な高等教育の廃止」だという意味です。


20代過ぎまで続く組織的な高等教育の問題は、専門家のスタートが20代では遅すぎるというより、「組織の共同の幻想の監獄」から抜け出せなくなっていて、個人としての自由な発想や独創ができなくなってしまう。

共同での幻想と「既知」の中の知恵だけでは、コペルニクス的な革命的な新しい知恵は生まれないということをあの抜粋部分にホイル博士は書いていました。



もし今の世の中から高等学校が消えたら、10年もあれば「今では考えられないような素晴らしい発明」と「未来の生活」の展望がその国には見えてくると思います。

その理由は、過去の偉大な発明家がどんな人で、若い時どのように過ごした生活だったかを見ればわかります。学校で規則正しくガリガリと幻想を植え付けられる勉強を真面目にしていたような人をひとりでも挙げるのは難しいです。


ずっと「自分で想像」をしていた人たち。
その想像と夢想を現実と結合できた人たち。
そういう人たちが今の社会にある便利なものの数々を作り出してきた。

みんな、幻想ではなく現実を見ていたからできた。


でも、小学校で学校制度を終了させる社会の実現なんていう簡単な社会の設営すら、実際にできるかというと多分「できない」でしょう。


そう。

できないんですよ。

人間には。

そういうことをやると「革命(社会革命のほうの)」というようなことになってしまって、そんなもので、「成功した革命」などこの世に存在しないように、「成功した人間の政治社会」というのは存在しないと思います。


さて、そこで宇宙の登場です。


ということで、時間軸とかいろいろありますが、そういう流れの中で、地球は様々に変わっていくということなのかなあと。なので、「破局」ということは悪い言葉でありながらも、「次の新しい段階」も破局がないと始まらないとはいえそうです。

ただし、その時には、破局前の「存在」も「概念」も一切残っていてはいけないと思いますけれど。

「新しくなる」ということはそういうことだと思います。


何も残ってはいけない。

何も。


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posted by noffy at 22:01 | 現世人類としての最期に