2013年03月03日

現世人類としての最期に(2) - 破局の概念



最近は、夢と現実が多少リンクすることが多く、昨晩、夢の中で、道を通り過ぎる男性から、

「おい、キミ、顔色がひどく悪いぞ」

と言われて、

「え? オレ?」

という会話の直後に目覚めると、吐き気と体の小さな震えが起きていて、ヨロヨロと洗面室に歩いて鏡を見ると、夢で言われた通りに、顔色が死人のように真っ白なんです。

「なんじゃこりゃあ・・・」。

ここ数年たまにあるのですが、「眠っている間に自律神経の失調みたいなパニックみたいな状態に陥る」ということに陥っていました。


と同時に、夢での光景が私の好きな 1970年代のフランス映画『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』の中に出てくるシーンとそっくりで、映画では、死んでしまった青年が死後の世界とおぼしき街で、死人に「顔色が悪いぞ」と言われるくだりなんですけど、

「あのシーンと似ていたなあ。オレ死んでるんじゃないだろうな」

と鏡を見ていて、「うーん・・・生きてるっぽいが・・・」と思うもののとにかく気分が悪く、そのまま自分の部屋に行き、ヘタヘタと座り込んで自分の体調を自分で判断してみます。

bur-01.jpg

▲ 私が二十代の頃から、生涯でも大好きな作品のひとつ、ルイス・ブニュエル監督の傑作ギャグ映画『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』(1972年)。これは夢の中での「死後の世界」。


吐き気がひどいので、スーパーの袋を左手に持って時間の経過を待ちます。

そのまま死んでいく場合なら、意識が混濁してきたり、めまいがひどくなるものだと思われますので、そうなったら、奥さんを起こしたりいろいろとすることはありますが、収まっていくなら、いつものような「自立神経的な異常」の線が強いのです。


とにかく、私のようなパニック障害とか目まいの常習者は、「今起きている症状が、何か命に関わるものなのか、そうではないのか」を知るようにしておかないと、すぐに病院に運ばれたりというようなことが多いです。

命に別状はないのに救急車を呼んでしまうことは避けたいところなのです。

実際、救急病院でも、具合が悪くて運び込まれる人のかなりの人たちが、「実は体は何でもない」という人たちだったりする事実があります。

もちろん、発症してすぐに対処しないと命に関わる症状も多く存在します。



昭和の喜劇役者たちの人生を読んでいるうちに

昨晩の私で、もっともひどかったのが「吐き気」だったんですが、実はその数時間前まで、何のきっかけだかわからないですが、Wikipedia で、亡くなった過去のいろいろな喜劇役者などの経歴を見ているうちに止まらなくなり、お酒を飲みながら何時間も読んでいたのですが、夕飯を食べずに空腹で飲んでいたことも原因だったかもしれません。

理由はそれだけではないでしょうが(空腹でお酒を飲むことは普通のことなので)。


経歴を読んでいた芸人の多くは 1963年生まれの私が生まれる前から活躍していた人たちでしたが、特に当時の大阪で、

「北の雄二(南都雄二)かミナミのまこと(藤田まこと)、東西南北、藤山寛美」

という言葉があって、これは、当時の大阪芸人たちが、「夜の街を金に糸目をつけず豪遊した」ことと、その代表的な人々をあらわした言葉でしたが、この中の藤田まことさんの伝記はまことに趣深いものでした。

藤田まことさんは、役者としては、「成功者」や「出世していく男」、「偉くなっていく男」などを演じるのは嫌いで一度もやらなかったそう。

その理由を尋ねられた時に、このように言っていたそうです。

「成功者は、成功する過程で他人を追い落とすなど、人間らしいとはとてもいえないような生き方をするものだが、芝居にするとそのような人間らしくない生き方が省略されたり強引に美化されるからだ」。


私も小さな頃から、たまにテレビで「成功者の話」を見る時に上のことを考えることはありました。つまり、「この成功者の裏でつぶされたり死んでいった人たちのことは『なかった存在』となってしまっている」と。

そして、私自身はもう子どもの頃から、自分自身が成功者とかとは無縁で生きることを確信していましたので、上でいう『なかった存在としての人生』を歩み続けるのだろうなあと思っていました。


そして、まあ、実際そんな感じで生きていますが、そんな感じでいろいろな人の人生の概略を昨晩読んでいましたら、体調崩してしまったみたいです(笑)。




辺見庸の言葉

そういえば、喜劇役者とは関係ないですが、経歴を見ている中で、芥川賞作家である辺見庸さんのを見ていましたら、彼は大震災で被害を受けた石巻市出身の人らしいですが、そのことを書かなかった理由として下のようにありました。


あふれた「耳障りのいい言葉だけがもてはやされ、不謹慎だと非難されそうな言葉は排除される」言説に強い違和感を覚え、口を閉ざした。

彼は次のように言う「悲劇にあって人を救うのはうわべの優しさではない。悲劇の本質にみあう、深みを持つ言葉だけだ。それを今も探している」と。


これは、『私の中の日本軍』の山本七平さんも同じことをよく書いていました。

なにより、私自身が若い時から何度も何度も感じることでした。

いつ頃からだったか、この、

> 耳障りのいいことばだけがもてはやされ、不謹慎と非難されそうな言葉は排除される。


という傾向はメディアで強くなり、現在に至っています。
これは日本だけではなく、いわゆる主要国全体の話だと思います。

このあたりにも、私はもはや、人間集団の価値観としての世界としての破局を迎えていると感じます。

つまり、今の社会は、「人を救う本質的な言葉を失った社会」だと。

私は、震災の数日後に完全にテレビ、特に報道を見るのをやめたのですが、それにはそのようなこと(うわべの言葉が被災者たちには意味がないこと)がヒシヒシと伝わったということもあります。


映画『地獄の黙示録』の中に、アメリカ兵の小隊がベトナムの一般民の家族数人を誤射で全員射殺してしまうシーンがあります。その後、主人公は、ひとりだけ息のあるベトナム人を射殺し、殺した本人がナレーションでこう言います。

これが我々のやり方だ。
機関銃で撃ってからバンドエイドで手当する。・・・茶番。

このウソが憎い・・・。


『地獄の黙示録』はベトナム戦争の映画ですが、同じベトナム戦争映画で「ウソじゃないほう」を並べていった『フルメタル・ジャケット』という映画があります。

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▲ 映画『フルメタル・ジャケット』(1987年)より。


いずれにしても、今では映画のほうも変わってしまって、ウソの世界が満ち溢れていて、言葉狩りは完成に近づき、街からは不快な状況や、「不快な人々」の姿も消えていっています。

清潔で明るくて幸せな街の姿がテレビの中で描かれます。

日々起きる犯罪などは「みんな忘れるまで一方的に非難して、それでOK」ということにもなっていて、人々に「考えること」を放棄させようとしている。





素晴らしい世界に行くという方々もこの世界のことを忘れないで下さいね

ここ数年来、いろいろな風潮があって、たとえば、スピリチュアルの世界などでも、アセンションという言葉に代表されるような「他の宇宙や次元へ旅立つ」というような話や概念はとても多いです。

私はよくわからないですが、それはそれで(その方々には)いい話だと思います。

そして、そのように新しく素晴らしい世界へ行くという人たちには、この今の世界のことを忘れないでいて下さいと言いたいです。

その素晴らしい世界に行って「過去のウソと欺瞞」をただ忘れるのならば、何のためにこの今の世界を通過したのかわからないということになります。


なので、「かつてこの世には大きなウソが存在した」ということを忘れないでほしいと思います。


私自身は、この世に生まれたのだから、他の世界になどは行かずに、この「ウソの世の中」で分子レベルで消滅したいと思っています。それに「美しい世界」なんて私には向いていないです。


ところで、上のほうに、ルイス・ブニュエル監督とスタンリー・キューブリック監督の作品をあげましたけれど、ふと、「このふたりの若い時の顔って似ているのでは?」と思い出し、写真を並べてみましたら、下の通り。


louis_kublick3.jpg


陰鬱さが似てる(笑)。
共に30代くらいですかね。


何だか雑談となってしまいました。


今年の冬は昨年より寒かったのですが、ようやく暖かさも見えてきて、冬を越した植物たちも何とか大半が生きのびたようです。

中には、冬前よりツヤツヤしだしたものなどもあります。

下のは3年くらい前に 100円ショップで買ったものですが、冬の間は机の横に置いていて、あまり太陽にも当てていなかったのですが、いつもさわっていたせいか何なのか、葉っぱがニスかオイルでも塗ったかのように輝き始めまして、下のようにビカビカと光っている現状です。

フィロデンドロン


夜などはかなり寒かった冬でしたが、強いもんだなあと感心します。

しかし、「オレが死んだら、お前ら植物の世話するヤツがいなくなるんだな」ということもあり、そういう意味では突然は死ねません。


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posted by noffy at 16:43 | 現世人類としての最期に