こどものうちは、たかが「駆けっこ早いねー」と言っていればよかったものが、次第にそうもいかなくなるのが世の中。
小学校くらいになると、何だかしらないけど、
「早く走らなければならない」
「鉄棒ができなければならない」
「その他いろいろと運動ができなければならない」
とか「なければならない」が増えるわけです。
私は運動神経が「ゼロ」の人で、できないのもできないんですが、疑問も疑問だったんです。
早く走ることもできなければ、鉄棒もできない。
それでも、小学生の時はなんとなく「努力したりするフリ」をしたりしていたけれど、でも努力したって、早く走れるわけもないし、「その他いろいろ」ができるわけもないし、実際にできなかった。
高校生くらいになると、上の質問を教師にもするようになりました。
「どうして人が人より早く走らなければならないんですか?」
と、そのまま何ヶ月だったか私は高校の体育は「見学」という扱いで過ごしたのですが、しかし、その体育の教師は担任で、ふだんは仲が悪いわけでもありませんでした。
それだけに先生にも「悪いなあ」とは思ったんですけど、私は「どうしてそれが自分の人生に必要なのかどうかがわからないと納得しない」というところはありました。
でも、基本的に「目上に反抗」とかしたことないです。
そもそも、私は子どもの頃から「人に反抗する」とか「反対する運動とか行動」とか大嫌いで、軋轢が嫌いなんです。
できれば、摩擦なく、みんなとぼんやりと過ごしていたい。
でも、疑問は疑問。
そういうのは7歳くらいの頃から蓄積されていたんですけど、一方で、高校の途中くらいからは、何だか、もうどうでもよくなってきて、「周囲の世界は勝手に進めばよろしい」ということで、麻雀(中学生の頃から、麻雀小説の阿佐田哲也に憧れていて、本気で麻雀プロになりたかったのです)と音楽(パンクとノイズだけ)をしていました。
うちの高校は地区で一番、北海道でも上位の進学校だったので、幸いなことに「落第」というものが存在しませんでした。これは奇妙な響きに聞こえるかもしれないですが、進学校というのは、とりあえず「誰も落第しないという前提ありき」なので、仮にテストで全科目「0点」でも、通知表は五段階評価の「2」までしかつかなかったのです。「1」という評価は埴谷雄高さんの概念でいえば、「虚体」というものであって、「言葉として存在しているけれど、ないもの」でした。
高校2年くらいで私はそのことに気づき、テストはほとんど「0点」でした。
なんだかんだいっても、高校などのテストで「ほとんど0点」だったという方は実際には少ないのではないでしょうか。0点も慣れてくると、むしろ壮観で、「0のほうがすっきりして美観的にもいい」というように思うようになりました。
でも、なんとなく先生たちには悪い気もしたので、たとえば、解答用紙の上に、
このたびはこのような問題を作っていただき、恐縮いたしております。ただ、諸事情で、問題を解くということは難しく、とりあえず目も通さないと思いますので、解答用紙には何も書かれておりません。
なので、これ以降、目をお通しにならないようお願いします。
上に「0」と書いていただければ結構です。
期末試験の採点にお忙しい中、お手を煩わせて申し訳ありません。
というようなことを「本当に」書いていました。
そして、解答用紙を返してもらう時に殴られたりするわけですね。
昔の先生はよく殴りましたけど、あれでよかったと思います。
十代の頃もっとも仲の良かったコバヤシくんのこと
今オリンピックをやっているときいて、いろいろと思い出します。
一番上に書いた疑問の
「どうして運動ができなければいけないんですか?」
の答え。
これをオリンピックと絡めて書いてしまうと、今の選手の方への中傷ともとられないので、それにはふれませんが、私が中学校から高校まで一番仲の良かった男性がいます。彼とはバンドをやっていましたが、彼がその「進学の選択」というものの末に姿を消してしまったという経歴があります。
北海道はウインタースポーツがとても盛んで、中学校くらいからでも上手な選手はかなり目をつけられます。
私のその友だちコバヤシくんは中学校で知り合って、音楽の趣味が合ったせいか、とにかくいつも一緒にいました。下手すると、そのままホモの関係にでもなってしまうのではないかというほどいつも一緒にいました。
しかし、高校は私は地区の進学校へ行くことになり、コバヤシくんはそうではない高校へ行くことになりました。コバヤシくんの高校とその周囲の高校は、一昔前の「ビーバップハイスクール」そのままのようなスゲー高校ばかりでしたが、高校のある町自体が違い、以前ほど会うことはなくなってしまいました。
その後は何ヶ月かに一度程度会ったりするくらいで、気づけば、2人とも高校3年の秋を迎えていました。
私は私で上のような調子の高校生活でしたので、進路を含めてどうにもならない感じでした。よく覚えてないですが、確か当時は偏差値というのがあって、全科目で30台だったと思います。もちろん、全学年 約300人中の最下位でした。
まあ、でも私のことはともかく、コバヤシくんも進路で迷っていました。実は彼は、「スキーの名手」でした。そのため、東京の比較的名門の大学から「スキーでの推薦」というものを受けていたのです。
私 「すげー。じゃ、そこ行くの?」
彼 「行かないよ」
私 「なんで? 受験しないで入れんでしょ?」
彼 「スキーで入学したら、スキーやめられないんだよ?」
私 「まあ、そりゃそうか」
彼 「趣味で滑ってて、たまの大会で優勝してるだけで、毎日スキー漬けなんかしてたら、好きなものも嫌いになるって」
私 「ああ、そうかもね」
というわけで、コバヤシくんは、スキー推薦を断り、小さな会社に就職しました。
その後、何年後かからコバヤシくんはものすごい人生となっていくのですが、まあ、それはまたいつかの機会にでも。結局、彼とは25年くらい前に完全に生き別れて、今はどうしているのか(日本にいるのか、生きているのかも)わかりません。
いずれにしても、私たちはその時はじめて、
「スポーツってのは、受験と同じ、人生のツールなんだなあ」
と実感した次第でした(だから「早く走りなさい」と先生たちは言う、と)。
コバヤシ君も「スキー推薦」には興味はあったと思うんです。
でも、スキーの大会で何度も優勝していた彼は、その「スポーツ大会の優勝の周辺に転がる気持ち悪い何か」を感じていて、
「まあ、オカほど何もできないのもアレだけど、スポーツの世界も気持ち悪いよ」
と言っていました。
ちなみに、私の運動の「出来なさ」は異常で、「人間ではない」と言われたほどです。
1970年代の日本映画で『高校大パニック』というのがあって、その中で、高校生が、教師に向かって、
「数学できんのがなんで悪い!」
と叫んで、ライフルだかショットガンで教師を撃ち殺すシーンがあり、当時見たみんなが映画のシーンを真似したものでしたが、私も、それを見て「ショットガンがあればなあ」と、体育の時間は思ったものでした。

▲ 高校大パニック。十代の浅野温子さんが出演していたはず。
この映画の冒頭は確か、受験生が「受験の英単語を呟きながら」ビルから飛び降りて自殺するシーンから始まる映画だったように思います。
私はその後、北海道の岩見沢という町にある実家を出て、札幌で1年過ごしました。
札幌の1年間も楽しかったです。
それまで会ったことのないタイプのバカな人たち知り合い、過ごしました。
そして、翌年、東京の大学を受験して、東京に来ました。
何の話を書きたかったのかわからないですが、17歳の頃、コバヤシくんとたまに深夜のゲーセンで過ごしていた時、
「こうやって、一生ゲームして過ごしたいねえ」
「うん。でも、100円玉がたくさんないとね」
などと言っていた私たちは確かに社会的にバカでしたけど、今でもあの頃の、「具体的な夢のない夢の中に生きていた曖昧な青春」というものは、今にいたるまでの自分を形作っている貴重な価値観です。
人生 50年と考えれば、今年あたりは最後の1年くらいで、基本的には思い出は楽しかったことばかりですけど、でも、現状はどうなのかなあとも思います。
しかし、最近の In Deep にも書くことがありますけれど、「この世ってのは存在していること自体が奇蹟」だということを知るわけで、まして、私自身の人生は、実際的にも奇蹟っぽい。
本当に今オレが生きてんのって不思議。
というわけで、さいごに上に出てきたコバヤシくんと録音した曲を貼っておきます。
30年ほど前のものです。
今年引っ越した時に30年くらい前に録音したカセットがたくさん出て来たんです。
Hata, Koba, Oka - Umbilical Chaos (1980年)
コバヤシくんはギター。
私はシンセとリズム全部です。
30年なんて早いといえば早いし、ハヤシといえばハヤシライス(おいおい)。