2012年02月15日

ブルーノと愉快な破壊フレンズたち



先日、 In Deep で「ジョルダーノ・ブルーノ・クレーターが示唆する「ショッキングな月の真実」」という記事を書いて、久しぶりにジョルダーノ・ブルーノの名前にふれました。

ジョルダーノ・ブルーノをはじめて知ったの昨年のことで、その後、クレアでもこちらの記事で、「ジョルダーノ・ブルーノを巡るわたしとバクテリアの会話」というものを書いたことがあります。

そのブルーノの著作「無限、宇宙および諸世界について」は、パラパラッと適当に読んだりしつつも、全体としては3分の1も読んでおらず、そのうち引っ越しとなり、ブルーノのことも忘れがちでした。


そこで唐突に出てきたのが、 In Deep の上記の記事の月のクレーターの話でした。

そんなこともあり、久しぶりに「無限、宇宙および諸世界について」を読んでみようかなと思ったのですが、私はどんな本でも「適当にいろいろなところを開いては読んで」という読み方なので、どこを読んだのか忘れてしまいました。

それで、「じゃあ、パッと開いたところ」と、開いたページ。


そこに書いてあることは、まさにクレアの昨年来のテーマでもあり、前回の記事でも、仏教に帰依しているニシオギの心療内科の先生が「ブッダの言葉」として、本に書いていた世界であり、あるいは、 クレアにコメント欄があった頃、私にシュナイダーなどの西洋神秘学のことを教えてくれた方が送り続けてくれたメールの内容ともリンクする世界のことが書かれてあるのでした。

ブルーノの著作「無限、宇宙および諸世界について」のその半ページに書かれていたことは、


この世には何もない。



でした。

「またなんもねえのかよ」となぜか語感も荒くなり、最近10年ぶりに DVD で見て再び泣き崩れてしまった、米国 WWF の内情を描いたプロレス・ドキュメンタリーの傑作『ビヨンド・ザ・マット』の中で、ミック・フォーリーというレスラーがつぶやく台詞、


「いつもいい人間でいたい・・・。いつもそう思っている。オレにそれができるだろうか」



という言葉を思い出します(なんかよくわかんないですが)。


いずれにしても、せっかくですので、ブルーノのその部分を抜粋しておきます。

「無限、宇宙および諸世界について」 第三対話(文庫本 160ページ)からです。



私が結論としたいのはこういうことです。かの有名な人口に膾炙している(※ 話題となっている)諸元素ならびに世界物体の秩序は、夢であり、架空の想像にすぎません。それは、自然によって真実を証されることもなければ、理性によって論証されることもなく、適切さからいっても妥当ではなく、可能性としてもそのようにはありえないからです。

そこで、知るべきことは、一つの無限な容積をもつ拡がりないし空間が存在し、それが万物を包み、万物に浸透しているということです。そこには、この世界と同じような物体が無限にあり、しかもそのいずれもが他のものより宇宙の中心近くにあるとは言えぬのです。

なぜならば、この宇宙は無限であって、中心もなく縁もないからです。この宇宙にある諸物体は、我々の世界のそれぞれの類似であって、他の場所で述べたようなしかたでそのなかに存在しています。




まあ、ブルーノの書いていることは「まったく何にもない」という意味ではなさそうな感じだとしても、私たちが「これ」とか「あれ」というようにして認識している世界の「在る」というものとは違うかたちのことをいっているような感じです。


この「この世は何もない」ということについては、今度少しちゃんとまとめないとダメかもしれないですね。もう何がなにやら、よくわからなくなってきている。

そして、私たちは考えなきゃいけないのかもしれないですし。

すなわち、「どうして何もなくてもよかったのに、何かがあるのか」と。

これは以前、現ローマ法王が同じことを言っていたことがあって、彼はそれを本当に「理解したがっている」と私は感じてしまいました。

それ以来、ベネディクト16世はそんなに嫌いでもなくなりました。ベネディクト16世は悪人顔のせいなのかどうなのか、どうも悪い評判も多いですが、「悪い人間であるかどうか」なんてことはどうでもいいことで、「どうして存在しているのかということを考えている友達」ではあると今は思っています。


上のほうに書いた、以前のクレアにコメントを下さっていた人もそういう意味での「存在の破壊友達」なのかもしれません。そのメールの一部はこのようなものです。これは震災直後にいただいたものです。前略、後略ですので、意味が通りにくいですが、お許しください。



宇宙は最終的な結論として人間を選びました。この奇跡の只中にいる人間自身がこのことに気づいていません。空に輝く物質的な太陽とおなじ力が人間の内部にも働いているという事実をです。

自分自身の知性がこれから大きく変容する可能性があることに人間は気づかなければなりません。宇宙の命運が掛かっていることを知らなくてはなりません。

過去の光は人間の内部に移行しました。自分の思考が宇宙の意志であることを自覚すると、想像をはるかに超えた数の存在たちが闇から救出されます。






まあ、今でも理解のとぼしい私ですが、そのあたりにただよう「空気」というものは少し感じられるかもしれません。



破壊フレンズたち

私にそういう「もしかしたら、この世には何もないのでは?」というようなことを教えてくれたもの、あるいは「そんなフレンズ」はたくさんあります。前述した米国のプロレス団体 WWF (の 1998年から2001年までのすべてのイベント)。あるいは、1979年のオーストラリア映画『マッドマックス』の冒頭に出てきてすぐ死ぬ悪党のナイトライダーの台詞、「自由に向かって一直線だ!」(と言った直後に死ぬ)


nightrider.jpg

▲ 今でも世界の不良中年たちのヒーローである『マッドマックス』のナイトライダー。


あるいは、幼稚園の時、はじめて近所の子の家で「テレビ」を見て、そこで放映されていた『トムとジェリー』の「土曜の夜は」という回でのトムたちのチャーリー・パーカーばりの素晴らしいジャズを演奏しながらのドンチャン騒ぎ。




▲ 『トムとジェリー』の「土曜の夜は」(1950年)の演奏シーン。


子どもの頃から大人になるまで、「現実的なもの」と「現実的でないもの」の区別を曖昧に成長してきてしまったのが私だという感じはあります。

そのときどきに自分のまわりにいてくれた人たちのお陰で、私は現実の中に踏みとどまっていて、そして、まあ楽しいことも苦しいことも経験できています。

経験にしても、公共の場であるブログでは書けないようなこともたくさん経験してきているのが実際ですけれど、でも、人から見れば、ずいぶんと多くの経験をしたり、見たりすることができた。

不思議なもので「いろいろなことを見ればみるほど」、次第に「本当にこの世ってあるのかいな」という感覚が生じてくる。

そういう意味では、お釈迦様もブルーノもイエスやあるいは、名前はわからないですが、仏教の伝達者のえらい人々も、みんな「いろいろと世の中のことを見過ぎていた」という可能性もあります。

その結果、

「なんにもない」

と。

「はじめ人間ギャートルズ」のエンディングテーマ「やつらの足音のバラード」は、「なんにもない、まったくない」というところから世の中は始まったという内容の歌ですが、さらにいえば、

「今も何にもない」

というのも「あり」ということのようです。


Sponsored link




posted by noffy at 19:30 | 23 to 24