前に引っ越しのことを書いたのですが、引っ越しといっても、ここから電車でもクルマでも1時間かからない場所への引っ越しですが、それでも、その新しい場所は東京ではないんです。なので、結構「おおごと感」はあります。
東京は突然涼しくなって、今日は東京でも雪が降り、午前中の気温は2、3度で、私が「過ごしやすい季節になったね」と言うと、寒がりの奥さんはゲンナリとした顔をしていました。
私自身は、氷点下 10度くらいまでは守備範囲です。
ここ数年は一度も厚手の上着を着て外出したことがないです。
そんなわけで、外を歩くことは楽しいのですが、太陽がなんかものすごいギラギラとしている。
この1週間くらい、太陽がものすごくまぶしくて、太陽の差し込む角度が視線の角度と平行になってきたせいもあり、午後など太陽に向かって歩くと、まぶしくて前を直視できないことが多いです。
今日、不動産屋との契約をしに京王線という私鉄に乗っていましたら、立っていたドア側がちょうど太陽サイドで、ビルの谷間から電車に差し込む日差しが殺人光線のように差し込んできて、私など「うっ・・・」と手でを太陽光を遮ったりしていたのですが、隣に立っていた初老のおばあさんは動じることなく外の風景を見つめていました。
どことなく扇千景と似たその方が太陽に真っ向から立ち向かうお姿を見て、ふと、
「なんかヨーダっぽい・・・」
と、本人が聞いても喜ばないだろうなあというようなことを思っていたのでした。

それにしても、この太陽のギラギラぶりはどうしたことだ? とは思います。
In Deep の記事でも執拗に書いていますが、太陽活動自体は妙に弱いのです。
それでも、こんなにギラギラとしている。
今日は、午前中は雪で、午後からどんどんと天気が良くなり、雲が引いていく中からバシバシと太陽の光が東京の街に突き抜けていました。
電車からそんな風景を見ながら、学生時代に好きだったハードコアパンクバンドの歌の歌詞など思い出していました。「あぶらだこ」というバンドの「29」という曲で、それはこんな歌詞の歌でした。
今でも意味はよくわかりませんが、騒音の中でこういう言葉を呟き続けるそのバンドのライブにはよく行っていました。25年以上前ですかね。
「ああ、その東京ともお別れなんだなあ」と思うと、やや感慨深くなるのでした。
東京とおわかれと言っても、引っ越し先の駅の2つ隣は東京都なんですが、それでも、東京都ではない。
まあ、光がバシバシとあたっている今まで住んでいた街の光景というのも悪くはないものでしたが。

こどもと大人の境目
本当は他に書きたいことがあったんですが、慌てて書くようなことでもないですので、今日は簡単に書いておきます。
私には6歳の男の子がいるんですけど、「子どもっていつ大人と考えればいいのか」ということをよく考えるんですよ。それがわかれば、その頃には、すっきりとお互いに独り立ちすればいいと。
子どもにしても、十何歳とかハタチとかまで親と一緒にいたいわけがない(特に父親とは)。
私もイヤだったです。
しかし、年齢の基準がどうもわからない。
以前、 In Deep に書いた
・マヤ語の研究でわかった人間の感情の認識
という記事でリンクしたブログの「マヤ族の子供の旅立ち」という記事にこんな風にあったんですね。
マヤ族の子供たちは12歳から13歳になるとおとなの仲間入りをしました。その前にいろいろなこと、基本的な生活に必要なこと、たとえば家を作る、作物特に主食のトウモロコシの栽培方法、獲物の取り方をおしえてもらいました。(中略)
それから、感謝すること、特に太陽や風や雨などに毎日感謝をすることなど生活の中で大切にしなければいけないことなどを習います。
最終的に旅立ちを許可してくれるのは神官でした。
「ふーむ」と私は思いました。
この13歳くらいというのは、私たちが子どもの頃の「自分が大人」と思った感覚と近いものなので、納得いきます。
とにかく、マヤでは 13歳が大人の年齢。
しかし、これでも「なんか遅い気がする」と考えていたところに、ふと、私が大好きだった1970年代の映画「エル・トポ」のオープニングを思い出したのでした。
これはその部分の1分間くらいです。
この日本語版、途中の「お前はもう一人前だ」というのが抜けていて、すなわち、主人公は自分の息子に、
「お前は今日で7歳になった。もう一人前だ。だから、オモチャと、母親の写真を埋めなさい」
という台詞を言っています。
ここでは、子ども(ここでは男の子)が大人になるのは「7歳」となっています。
どんなもんなんですかね。
7歳でOKなら、私はあと1年で砂漠(あるいは地獄)に旅立てます。
地獄に行くときは誰でもひとりですからね。