
何となくいつもの続きを書く気力体力が不十分で、少し横道に逸れます。
ここ何日間か何となくイライラするときが多いです。
イライラする時は鍋磨き。
なんですが・・・この「イライラする時は鍋磨き」のフレーズ、何だったかなあ。
まあ、実際に私は鍋磨きが好きというか得意なジャンルなんですが、それはおいといて考えます。
そして、
「多分、ダリアの帯だ」
と思いつきます。
『ダリアの帯』は、大島弓子さんの漫画で、ネットで見てみると 1983年くらいのものだというので、30年近く前の作品みたいです。読んだのはもう少し後だったと思いますが。上の鍋磨きの台詞は、『ダリアの帯』か、その頃の大島弓子さんの漫画のどれかで主人公の女の子が言っていたように思います。
『ダリアの帯』だとすると、若くして結婚したお茶目な女の子が、流産をキッカケに現実喪失の狂気に陥っていく話で、それを旦那さんが最後まで面倒を見るような話でした。

ネットで探すと、『ダリアの帯』 論 というブログ記事があって、このように書かれていました。一郎というのはこの物語の(主人公の)女の子の旦那さんの名前です。黄菜(きいな)というのが女の子です。
やがて月日は過ぎ、60才となったある日、一郎は畑の中で静かに息絶える。
肉体を離れた彼は一挙に自由の身となり、そこではじめて黄菜の生きていた 「世界」 の 「意味」 を知る。
彼女は 「魂」 となった彼の言葉に耳を傾け応えるのである。
そればかりでなく、まるで独り言のように見えていた言動が、実は、草や木や、生まれてこなかった子供や、風や雲や霧や雨の雫、有形無形の森羅万象と話を交わしていたのだ。
とありました。
ああ、そうだそうだと思い出します。
その彼女、黄菜ちゃんが狂気に陥ってしまう彼女の最初の頃の様子のひとつに「一日中鍋を磨いている」というのがあったような記憶があります。
ずいぶん長い間、大島弓子さんの漫画も読んでいないですが、20〜30年前、私の周囲では男女は関係なく、大島さんの漫画を読みふけっていたものでした。
今思えば、私が「女性性」というものと最初にまともにふれたのは大島さんの漫画かもしれないです。
大島さんの世界観はわりとはっきりとしていて、
・日常
というものと並列で、
・夢
と
・もうひとつの日常
が同じ場所にあることを描きます。
だから、ストーリーの中で悲劇に見える話が多いです。
それを全然悲劇ではないようなタッチで描くからみんな夢中になるわけで、あれで、暗さがあったら、つらくて読めないほどテーマは重いものが多かったように思います。
あんまり覚えてないですが、ネットでみると、「水枕羽枕」にはこういう文言が書かれているのだそう。
生まれていなければ
あたしは今
どこで
なにをしているの
あたしは今
どこで
なにをしているの
どうやら女性である大島さんには「存在しない」という概念がないようで、そのような発想ですべての物語が展開されます。なので、生まれる前も死んだ後も日常の人々も同列で描かれることが多いです。
「死んだ」とか「生まれた」とかもあまり特別ではないという感じでしょうか。
でも、「現代社会ではそれでは(生前も生後も現実もすべてを一緒にするような価値観では)混乱する」というようなことはあるようです。
ところで、「鍋磨きの極意」のほうにもふれますと、これは結論からというと、
・アストニッシュ
などの海外のクリーナーと
・銅のタオル
のふたつがあれば、ほとんどの鍋の汚れは落とせます。
これで鍋磨きをやっている時はイライラ忘れますね。
あとは、15年くらい前からはずーっと、イライラしている時には、フェイ・ウォンという中国の歌手がいるんですが、彼女の「浮躁」というアルバムを繰り返し聴きます。なんと私はフェイ・ウォンの他のアルバムも曲も知らず、彼女のこのアルバムだけが好きなのです。十数年前に吉祥寺の街で偶然見つけてジャケ買いしたのでした。
下のはアルバムの表題曲。
歌詞はほとんどなくて、少しある歌詞はこんな感じ。
九月の空は高く 人はそわそわしている
何もかも順調でひたすら退屈
単に煩悩が不足している
というような歌詞です。
もともと彼女の歌詞は難解なので、訳は適当ですが。
王菲 - 浮躁
歌の中でずっと口ずさんでいる「ラ・ジャ・ボー」は何語でもないと思います。
ちなみに、イライラしてるといっても具体的な理由がないんですけどね。
まあ、理由はこの上の歌の歌詞そのものなのかもしれないです。
「単に煩悩が不足している」。
煩悩ってのが何なのかわからないですけれど。