生まれたばかりの赤ちゃんは目が見えないとされています。

▲ Goo ベビーより。
しかし、他の様々な哺乳類などの「生まれた直後」を考えてみたり(他の多くの哺乳類では、たいていはすぐに、あるいは短期間で見えると思われます)、また、フレッド・ホイル博士などが自著で述べていた「眼球を持つ脊椎動物のほとんどは、分子的に共通の眼球構造を持つ」というものを考えると、そもそもの「赤ちゃんは見えていない」という言い方がおかしいのかもしれないことに気づきます。
上の Goo ベビーの「3〜4ヶ月目」の赤ちゃんの視力の説明のところにこのようにあります。
「ぼんやりとしか見えていなかったのが、生後3ヶ月過ぎくらいからだんだんと焦点が合うようになります。」
さらに、1才〜3才の赤ちゃんの視力の説明のところにはこうあります。
「立体視ができ、奥行き、上下左右、自分と物との距離などもかなり正確に把握できます。」
このすべての人類が通過する「赤ちゃんの最初の1年間プラスアルファ」という時期を念頭におきながら、次のいくつかの資料や過去記事を今一度見てみたいと思いました。
まずは、クレアの今年 7月12日の「[資料]人間は生まれた時に「音」で世界の形を学習していた」に記載しました翻訳記事からの抜粋です。
赤ちゃんは言葉を認識する前から「音」を通して世界を学んでいる
米国科学的心理学会 プレスリリース 2011.07.11
赤ちゃんたちは、ほぼ 100パーセント、その母音に応じての同じ対象を見た。
つまり、母音と物体認識の間の相関関係がほぼ絶対的であることが実験で示されたのだ。
(中略)
赤ちゃんは言葉(単語)自体の意味は知らない。しかし、母音によって、大きなもの、小さなもの、丸いものなどの形状を「言葉から」学んでいるということになる。
音の持つ特性によって世界を認識している可能性があるのだ。
というものでした。
この実験は成人に対してはずっと続いていたもので、最近になってから、赤ちゃんに対して行ったところ、きわめて顕著に「母音と世界が対応している」という結果となったというものでした。
私にとっては、実はこのニュースが今年の大ニュースの第1位なのですが(実験の結果が、聖書の「ヨハネによる福音書」に書かれてあることと同じだったから)、それはともかく、こんなような実験の結果がありました。
この実験が正しければ、
・赤ちゃんが言葉(母音)によって世界の出現を獲得するまでは、「世界は見えない」
ということが推測されます。
光の認識はどこでおこなわれているのか
上に出てきた「見える」とか「見えない」ということについての仕組は比較的ハッキリしていて、私たちは「反射した光」を見ています。
その光の濃淡や色(屈折率)を見ています。

▲ 人が「目で」見る仕組み。
しかし、どうして「私たち人類に光が色として見えるのか」はいまだにわかっていません。つまり、「どうして赤が赤に見えるのか」はわかっていないということです。

▲ 紫から赤の色のついた部分が可視光線で、その上にある数字の波長の部分で人間は「その色だ」と感じることができるのですが、それが「どうしてそう感じるのか」はわかっていないし、科学的には永遠にわからないことだろうとされています。
この「光」をどこで見ているかということに関してですが、これはちょっと断定的な言い方で申し訳ないですが、個人的な考えでは、
・目(視覚)で1割程度
・松果体で9割程度
だと私は思っています。
これは、これから抜粋する米国の大学での魚に対しての実験からの数値ですが、どんな動物でも基本的には同じ光感知システムを持っていると思うからです。
クレアの過去記事で、もう1年以上前のものですが、「植物の人類支配の目的とか松果体の役割の発見のことなど」という記事に、米国のメリーランド大学の教授がおこなった「目の見えない魚の光の感知実験」というものの記事を翻訳してご紹介したことがあります。
そこから抜粋します。
目の見えない魚は松果体でものを見ていた
The Epoch Times 2010.07.03
研究者たちは、魚の松果体、片眼、あるいは両方の眼を取りのぞいて実験を続けた。両眼を取り除かれた陸地の川の魚と洞窟の魚は両方が従来と同様の行動を示したが、松果体が取り除かれた魚では、約10パーセントの魚しか影への反応行動をとらなかった。
研究者たちは、松果体が影への反応行動の重要な要素であると断定した。
しかし、松果体だけで光を検知しているわけではなく、松果腺と運動系との神経連絡が存在すると結論づけた。
少なくともこの魚たちに関しては、基本的に光を「頭の中で」見ているということが考えられます。
そしてこれは、多分私たち人類もそうなのだと思います。
訓練とか修行とかが必要なのではなく、現時点ですでにそうなのだと思います。
しかも、誰でも。
その理由は、たとえば、目をつぶっていても、夢には光が現れます。
それが想像上といわれようが、何だといわれようが、「物質としての光」が頭の中にあることがそれでわかります。
これは前回の記事でもふれた、アリストテレスという人の「自然は真空を嫌う」ということと関連していて、そこに何もなければ(真空なら)、夢にも想像上にも「光は出てこない」はず、です。つまり、概念であろうと何であろうと、「何もなければ何も(光も)頭の中には出てこない」と思われるからです。
そして、「この世のすべての情景描写は光の屈折率だけで行われている」という事実。
それ以外のこの世の風景はひとつもありません。
すべて光です。
赤ちゃんは目の視覚からの光を模索していると同時に、「松果体での光の模索」も続けていると思われます。
そして、視覚と松果体と同じようなペースで世界を認識していく。
これによって、「赤ちゃんの意識の中に世界が登場する」ということになります。
ひとりひとりの中での世界の誕生
もうひとつ資料を。
これもかなり前のものとなりますが、2009年1月のウェブボットです。
ALTA 909 パート4にあるクリフ・ハイのエッセイからの抜粋です。
ALTA レポート 909 パート4
Web Bot 2009年01月24日
ここには瞑想をする人が意識を超越した状態になる「パンタンジャリ」という状態が関わっている。この 境地は、道教の修行者や他の瞑想の修行者が到達する状態として知られている。
この状態は修行者には「流れに入ること」として知られている。これは修行者が、意識によ る世界の創造が行われる少し前に、流れのような状態になっているものを上空から見るような体験のことだ。
それは「解脱」とは異なった体験だが、修行者であれば誰でも体験することができる状態だ。
とあります。
この後には訳者のヤスさんが解説を入れられていて、そこにこのようにあります。
「宗教を含む哲学の基本的な考え方には唯心論と呼ばれる思考の系譜がある。これは、客観的な世界はもともと存在せず、世界はわれわれ人間の意識が作り出したものであるとする考え方だ。意識の流れが世界を作る。
では人間が介在する前の世界とはいったいなにかというと、それは個々の対象物には分かれていない(無分節)のっぺらぼうな塊であると考えられている。」
赤ちゃんは最初、この「個々の対象物には分かれていないのっぺらぼうな塊」を見ているので、「見る対象がない」はずです。
・だから見ない。
そして、上のほうに抜粋した「赤ちゃんは言葉を認識する前から音を通して世界を学んでいる」という記事にあるように、
・母音によって、それが認識されるものとして成立していく。
つまり、「世界ができていく過程」というものを、赤ちゃんは生まれた最初の1年間から2年間のあいだ、「お母さんの母音を通して」続けているのだと思います。
人間の人生という意味では、「赤ちゃんの最初の1年間は、人生の90パーセントを占めている」くらいのものに感じます。
いや、もっとかもしれません。
世界が現れなければ、いつまでも「無」のようなものが広がるだけなのですから。
松果体の存在の観点から考えますと、その「世界ができていく過程」は視覚ではなく、ほぼ「頭の中だけ」で行われていくようなイメージが、少なくとも私にはあります。
相変わらず、前後のつながりがいい加減ですが、書ける時に書き殴っていますので、整合性は「いつか」生じるのかもしれません。もちろん、生じないかもしれません。
ところで上に、赤ちゃんが母音を通して世界を認識する過程のところに、
> 「お母さんの母音を通して」
と書きましたが、どうしてお父さんではダメなのか?
これも大事なことですが、ちょっと長くなりますので、いずれ書ければ書きたいです。
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