
なんか大げさなタイトルをつけてしまいましたが、眠れないので雑記を書いているだけですので、あまり気になさらないで下さい。
In Deep の先日の記事の一番最後にこのとようなことを書きました。
「宇宙全体がひとつの体」という考え方もあながち間違っていないのかもしれません。ただし、それは「女性」でしょうけれど。
では、男性はどこに?
実はこの「では、男性はどこに?」という答えが最近少しわかってきたのです。
確かにわかった感じがあります。
でも、このことはなんとなくうまく書けないです。
たとえばですが、「お前の存在は現実的ではない」ということを、おびただしい証拠と共に突きつけられた場合、人によっては無力感にさいなまれる人もいるような気がするのです。
誰でも長く生きている間には「自分って現実なんだろうか」と考える時というのはあると思います。私はずいぶんと小さな時からいつもいつもこのことが頭の中に思い浮かび、そして、「いやいや、オレは現実なんだ」と、シャキーンとさせてまた現実の生活に入っていく。
しかし、ふと気を抜くと、また「オレって現実なんだろうか」と、ヘナヘナとなったりする。
そろそろお別れの吉祥寺にて
今日、吉祥寺を歩いていました。
吉祥寺パルコにいる時にとても強い終末感を感じました。
「終末感」と書くと、何だか悪い方向みたいですが、この終末感というのは心地よいほうのもので、「自分が存在しているのか存在していないのか、一瞬わからなくなる」という感じの心地よさなんですが、その後、吉祥寺の街を歩いて、人々を見ながら「選択もありかなあ」とか思います。
ここでいう選択とは「存在の選択」のことです。
生きるとか死ぬとかの話ではありません。
この「宇宙の中での存在を消す」ということは、(個人的な考えでは)男性にだけできることだと最近気づきます。しかし、一方で「そんなことを考えることに意味があるのかなあ」という方向の思いもあります。
いずれにしても、少なくとも「男性と女性の存在と発祥」という問題については、個人的には行き着いた感じがあります。
結局あまり言葉にできなかったですけれど、やはりもともとの問題が「言葉にはならない」部分が大きいですしねえ。
思えば、6月にヌーワを知って、途中、いろいろとありましたが、10月4日に公演で新しくなった自分(と環境)を漠然と感じて、そして、昨日か一昨日あたりに「この問題に行き着いた」という感覚があります。
あくまで個人的な話ですけれど。
終末は既にもたらされている
私が昨年あたりから好きな言葉に、カール・バルトというスイスの神学者の人の言葉があります。『ロマ書』という著作の中に書かれてあるそうです。 Wikipedia からの抜粋です。
「(キリストの)再臨が『遅延する』ということについて…その内容から言っても少しも『現れる』はずのないものが、どうして遅延などするだろうか。…再臨が『遅延』しているのではなく、我々の覚醒が遅延しているのである」と言い、「終末は既に神によってもたらされている」という認識である。
この「終末は既にもたらされている」という響きがとても好きで、つまり、「ずっと昔にすでに世界は終わっていた」と。
じゃあ、そのあとの時代は何なのかというと、世界全体としての意味は特にないということだと私は理解しています。
この数千年は個人のための時代だったと。
カール・バルトさん風にいえば、「人々がひとりひとり覚醒するための時代」だったということになるのかもしれません。
極論で書けば、彼の言葉はそのままこうなるように思います。
「世界はずっと昔に終わっていたことに気づき、そして神は来ない(いない)」と自覚した時が覚醒。
神の世界は死んだわけで、そして、何が来るのかというと、それは人間の世界なのだというように感じます。
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