2011年09月01日

「宇宙間の諸地球」 : 主が我々の地球に生まれることを良しとされ…の後編



さきほどアップした記事の後、さらに少し「宇宙間の諸地球」を読んでいて、その記事に書いたこと私の感想自体が「間違っているなあ」と思いました。

でまあ、本から書き写すようなことはできる時にしかできないので、やっておくことにしました。「主が我々の地球に生まれることを良しとされて、他の地球に生まれることを良しとされなかった理由」という章の後半部分です。

すべての表現が婉曲なのでわかりにくいですが、「言葉」を飛び越えて、「人間が神だ」という響きにさえ聞こえる部分もあり悩みますが、まあ余計な前振りなしで、書いてみます。

今日二度もアップしていますが、前の記事、


 ・スウェーデンボルグの「神とことば」に関しての見解


に、この章をご紹介しようと思った経緯など書かれてありますので、ご参照下さい。


それでは、ここからです。
この内容がわかりやすいとは思いません。

ご各自でお考えくだされば幸いです。

(※)文中に「地球」と何度も出てきますが、「我々の地球」と記されている以外の「地球」というのは、水星や木星などの太陽系の他の惑星のことをさしています。





エマヌエル・スウェーデンボルグ 「宇宙間の諸地球」(1758年)

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主が我々の地球に生まれることを良しとされて、他の地球に生まれることを良しとされなかった理由」より。

 主から天界を経て与えられた我々の地球の聖言は、天界と世とを結合させるものであることを知らなくてはならない。その結合の目的のために、聖言の文字に含まれているすべての物と天界のすべての物とは相応しており、聖言は、その最高の、また最も深い意味では、主、諸天界と地球内の主の王国、主から発して主の中に在る愛と信仰を取り扱い、従って主から発して主の中に在る生命を取り扱っている。我々の地球の聖言が読まれ、また述べ伝えられるとき、このような物が天界の天使たちに示されるのである。

 この太陽系の諸々の地球に住む者たちを前にして語った際に述べたように、他の各々の地球では神的真理は霊や天使たちを通して口の言葉により明らかにされている。しかし、こうして明らかにすることは家族内に限られている。なぜなら、大半の地球では人類は家族ごとに離れて生活しており、それゆえ霊と天使たちとを通してこのように啓示される神的真理は家族の範囲よりは遠くに伝えられず、新しい啓示が絶えず続いてなされないかぎり、真理は歪められるか、死滅するかするからである。我々の地球ではそうではなく、そこでは、聖言である神的真理は、永遠にその完全さをもって存続している。

 どのような地球の者であっても、神を人間の形の下に承認し、拝する者はすべて主から承認されて、受け入れられることを知らなくてはならない。なぜなら、人間の形をとられた神は主であられるからである。そして、主は人間の形をした天使の形をもって、諸々の地球に住む者たちに現れたもうゆえ、それらの地球から来ている霊と天使たちとは、神は実に人間であられることを、我々の地球の霊や天使たちにより告げられると、その聖言を受け入れ、それを承認し、それがそうであることを喜ぶのである。

 上に述べた理由に、以下のことを附加することができよう。すなわち、我々の地球の住民や霊たちは、かの最大の人間の中では、自然的な祖となる感覚に関係しており、その感覚は最も外なるものであって、そこに生命の内部が終わっており、またそこにそれをその共通の基底として依存しているのである。

 文字に於ける神的真理の場合も同一であって、それは聖言と呼ばれ、今述べた理由からまたこの地球にのみ与えられて、他の如何ような地球にも与えられなかったのである。そして、主は聖言であって、その聖書の最初であり、また最後であられるゆえ、そのため、すべての物が秩序に従って存在するために、主は、ヨハネ伝に記されているところに従えば、すすんでこの地球に生まれて肉となられたのである。

 (ここから聖書「ヨハネによる福音書」1章1-14節の抜粋)







参考までに、「ヨハネによる福音書」1章1-14節を日本聖書協会より。新共同訳。




初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

(中略)

言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。








スウェーデンボルグは「文字」と書いたのか「音」と書いたのか

上の抜粋部分に、「主から天界を経て与えられた我々の地球の聖言は、天界と世とを結合させるものであることを知らなくてはならない。その結合の目的のために、聖言の文字に含まれているすべての物と天界のすべての物とは相応しており」という部分があり、ここに

 > 聖言の文字に含まれているすべての物と天界のすべての物とは相応しており

という部分があります。

これはこの「宇宙間の諸地球」の原語版を知らないので、非常に邪推な考えですが、「聖言の文字」の「文字」は本当に原語で「文字」と書かれてあったのかが気になります。


というのも、以前のクレアで何度か、「母音と世界の認識」のことを書きまして、「人間の世界の認識手段は母音であり、表記文字ではない」からです。


文字文化を持たなかったマヤ文明やアイヌ文明や縄文の人々などの文明がどうして素敵(なような感じがする)ものだったのかということは、「文字のない人間文明の大きな可能性」を示唆してくれているような気がします。

そして、以前、[資料]人間は生まれた時に「音」で世界の形を学習していたという記事で翻訳した、米国科学的心理学会の発表である「赤ちゃんは言葉を認識する前から母音を通して世界を学んでいる」という事実を見ると、

 > 天界のすべての物とは相応して

いるものは「文字」ではなく、「母音」だということに気づきます。


なので、スウェーデンボルグが「文字」と書いていたのかどうかは重要なことのように思います。

それにしても、「宇宙間の諸地球」の上の抜粋部分は全体に難解ですね。

特に、


我々の地球の住民や霊たちは、かの最大の人間の中では、自然的な祖となる感覚に関係しており、その感覚は最も外なるものであって、そこに生命の内部が終わっており、またそこにそれをその共通の基底として依存している


などを読んでいると、松鶴家千とせさんの「わっかるかなー わっかんねーだろーなー」を思い出します。

chitose.jpg


まさに、ヘルメスのエメラルド板にある「上なるものは下のごとく」を実感します(そんな意味でいいのか)。



それにしても、なんだか慌ただしくてすみません。
アップできない時はできないですので、できる時にやっておきます。


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posted by noffy at 21:33 | 地球の歴史