さきほど、
・タイの女の子に何が起きているのか?
という記事をアップしたばかりでどうも慌ただしい感じなのですが、書くことが止まりません。
また記事をアップします。
上の記事の中に、「タイの神話」に興味を持ったということを書いたのですが、その流れの中で、ヒンドゥー教の女性の神様、ラクシュミーという人のことを知ったんです。
(まさか貴様、タイトルの「楽な趣味」ってダジャレでは・・・)
ハハハ、その通り。「楽な趣味=ラクシュミー」というダジャレなんですが、それにしても、いい名前だと思いますね。「楽な趣味」だと覚えやすいです。グーのパンチで殴られたような顔をしている中国古代神話の天地創造神パングー(盤古)さん共々、覚えやすいのはいいですね。
男の神様が出てきた場合はパン(チを作って)グー(で殴る)と覚えると忘れないと思います。
さて、「タイの神話」の話だというのに、どうしてヒンドゥー教が出てくるのかと思われた方もあるかと思います。一般的にはタイというのは仏教の国とされていて、それは間違いないのでしょうが、歴史の経緯の中で何がどうなったのかよくわからないのですが、神話系が多分グチャグチャなのですよ。
学術的なことは私にはわからないですが、たとえば、タイのスワンナプーム国際空港があるんですが、そこにあるレリーフはヒンドゥ教の神様です。

天地創造神話の「乳海攪拌」というもののモチーフらしいです。
この「乳海攪拌」というクソ読みにくい日本語は他に置きかえてほしいですが、「にゅうかいかくはん」と読むらしいです。
私は最初は、「乳首乱獲」かと思って、妙にエッチな神様だなと思いましたが、そういう「乳首を無造作にたくさんゲットした神様」という意味ではなく、「海のようなグチャグチャなカオスの状態をグルグルグルグルかき混ぜてこの世ができた」というようなやつで、日本の神話もそんな感じのようです。
それはともかく「仏教国」といわれるタイの「国家のメイン玄関にあるレリーフはヒンドゥー教の神様の像」であることは事実です。
さらには、私がタイで最も好きな場所にも他の神様が絡んできます。
私がタイに行ったときには必ず行く場所があって、時間が許せば、バンコクにいる時は毎日立ち寄るのですが、バンコクの街の中心部にある「エラワンの祠(ほこら)」(エラワン・プーム)という場所があり、現世的な御利益がある(つまりお金や名声など)として、大変人気のあるところで、いつ行っても誰かがお参りしています。
ここは「現世的なご利益」というものが渦巻いているドス黒い神事場であるにも関わらず、私にとっては、「とても空気が澄んだ場所」で、落ち着くのです。
そのあたりの周囲はいつも車の大渋滞で、空気が澄んでいるわけなどないのですが、とても落ち着く場所で、バンコクにいる時には、私は朝か晩、一度はここに行きます。そして、しばらく椅子にボーッと座って、御利益を祈願している人々を眺めています。
ここはタイの人たちにもとても人気があります。このタイの人たちにとても人気のあるエラワン・プームは何を祀っているかというと、「バラモン教」の神様なんですね。
つまり・・・・・このあたりにタイ人気質というようなものも多少感じるわけで、
「まあ、なんでもいいじゃないの。いいことする神様なら」
という「マイペンライ大国」の一端が垣間見える気がするのです。
だからこそ、タイには気楽に滞在できる面があります。
「○○の神様以外は許さん!」とか言われると、ススッと引いていく感じがありますが、「まあね(田中角栄風)、何でもいいんじゃないの? みんなエライんだしさ。神様ってのは」と言われると楽な気分になれる感じがします。
そういう意味では、ヒンドゥ教の神様の「楽な趣味」さんなんてのは、もうまさにピッタリのネーミングで、しかも、 Wikipedia にあるこの「ラクシュミー女神の振るまい」がとてもいいです。
幸運を司るため、移り気な性格であるともいわれる。
ラクシュミーが誕生した時、アスラ達が彼女を手に入れようとしたが、失敗に終わった。あるアスラは彼女を捕まえる事に成功し頭の上に乗せたが、その途端に逃げられた。
かつてはインドラと共にいたこともあったが、インドラでさえラクシュミーを自分の元に留めておく為には、彼女を4つの部分に分けなければならなかったという。
今日のさきほどの記事で、タイ女性の気質として、
・人なつっこい
・プライドが高い
・自由気まま
と書きましたが、もうこのラクシュミー女神様の体現していることといったら・・・。
ヒンドゥー教の最高神の一人であるヴィシュヌ(男)。
メソポタミアなどでも信仰されていたバラモン教の偉大な神インドラ(男)。
そして、アスラと呼ばれる数々の神々(男たち)。
それらがみんなで、
「ラクシュミーちゃん、もう少し言うこときいてちょうだい」
と(笑)。
たまんねえ・・・。
やりたい放題の自由な女神の暴走を止められる神様は、少なくとも、アジアからメソポタミアくらいまでの神様圏内にはいなかったようです。
このあたり、渋谷とかで指名を月に百本単位で持っていて、人気ナンバー1を張っているあたりのキャバクラ嬢などとの比較で説明しやすい感じなのですが、長くなりそうですので、「ナンバー1キャバクラ嬢とヒンドゥー教の女神の類似点」については今度書こうと思います。
10年以上前ですが、「渋谷のナンバー1から脱落した女の子」と知り合いだったことがあり、ラクシュミーさんの振る舞いを見ていると、彼女を思い出します。ちなみに、10年以上前のものですが、その彼女との会話をアップしたことがあります。これです。

▲ 私に昔のいろいろなことを思い出させてくれるラクシュミーさん。男の神様たちは振り回されて大騒ぎ。私もいつも振り回される男の神様のひとりであります。
このあたり、悲しみを体現する創造神ヌーワがいる「一方」の「男性から見た女性像」というものが垣間見えます。
ちなみに、ちょっと脱線する話ですが、こういう神話を考える上では、当時の時代(それが神の時代や、宇宙ができる前の時代であっても)を想像で考えるよりも、現在を考えたほうが気づくことが多いです。
私は創造神ヌーワは「今の私の宇宙の神様」と前置きしながらも、次の3つにはすぐに気づきました。
・十代の流行に敏感なお洒落な女性
・アスペルガー症候群か、それに近いコミュニケーション問題を持つ
・虚言癖と自殺癖
どうしてこんな現代人の女性像にしか見えない人が、「創造神」になり得るのか、というのが今後のこのブログでの課題のようなことになっていくのかと思います。
人間の数十兆の数の細胞が持つ DNA がそれぞれ持っているかもしれないワームホール(ブラックホール)では、日々、宇宙が創造されているかもしれなくて、そして、そこには「非常に若い宇宙」も存在しているはずです。
たとえば、昨日亡くなった人々によって、昨日できた宇宙の数々。
1秒前に亡くなった人の宇宙。
そういうこととを考えることが今後の自分のいろいろかなあとも思います。
[資料]世界各地の「はじめに言葉ありき」
ところで、「はじめに言葉ありき」について、面白くまとめられている PDF 書類を見つけました。
・創造神話と新創造論という文書です。
そこには、キリスト教、イスラム教、エジプト神話、マヤ神話など様々な神話での、「言葉から始まった」と書かれている部分が抜粋されています。
・キリスト教
ヨハネ福音書に「始めに言があった。言は神と共にあった。・・・・・・すべてのものは、これによってできた」。
・イスラム教(コーランより)
「天地の造り主。ご命令をくだしたもうときは、ただ、「かくあれ」との言で、すべてその通りになる」(コーラン二・一一七)。
「もしこのお方があることをきめたもうなら、ただ、「あれ」と一言発せられるだけで成就する」(コーラン四〇・六八)。
・エジプト神話
トートは宇宙を創造した神とされている。彼は原初の 宇宙卵としてみずからを創造し、すい蓮の上に出現した。トートが言葉を発すると「それらの言葉は存在を身にまとった」。すなわち、言によって万物を創造したのである。
・マヤ神話
原初に空と海が広がる中、テペウと「羽毛の蛇」のグクマッツしか存在しなかった。空っぽの空間に、何かができればいいと彼らが考えると、実際 に何かが現れた。「大地あれ」と言うと大地ができ、「山」を思うと山が現れ、「木よ」と 言うと木が生まれた。

▲ 上の PDF 書類に資料図画として掲載されている嘆かわしいヌーワ様の図。一緒にいるのは伏羲とかいう神様らしいです。何やってんだ、ふたりで絡んで(嫉妬)。
弥次喜多 In Deep に見る「はじめに言葉ありき」
以前も取り上げましたことがあるかもしれないですが、ブログ In Deep の名前の由来ともなっている、しりあがり寿さんの「弥次喜多 In Deep 」。ここでの宇宙創造も、上のマヤ神話とほぼ同じでした。
一度終わった世界の暗黒の中(漫画では何ページもすべて黒のベタで塗りつぶされている)で、やじさんときたさんの声だけが聞こえてくる。
「花がほしいな」
「池もほしいな」
「季節は・・・・・春だ!」
と、呟いた瞬間、新しい世界の春がページ全面の見開きで展開される様子は感動というしかなかったです。今、手元に「弥次喜多 In Deep」がないので(もともと奥さんの持っていたもので、誰かにあげたらしい)、台詞は適当ですが、まあ、そんな感じで、世界が「言葉」と共に始まりした。
あの漫画「弥次喜多 In Deep 」を読んでいなければ、この「はじめに言葉ありき」という意味も実感としては感じられなかったと思います。

▲ 「弥次喜多 In Deep」のワンシーン。登場する様々な人々(や動物や神々)も、非常に印象的なキャラクターが多いです。
こういう書き方は問題があるかもしれないですが、作者のしりあがり寿さんは「何にも考えないで」あの展開に行き着いているように思います。少なくとも理論的なことは。
結果的にその「何にも考えない」結末に生まれたものが、「世界が創造された時そのものの風景」だったように思います。
スゴイ。
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