私は東京に住んでいるわりに大きな街にあまり行かなくて、昨日、本当に久しぶりに新宿に行きました。しばらくその街並みなどを歩いて見ていて、「もうこれは以前のオレの目に写っていた東京ではないなあ」とつくづく感じて、何がどう違うのかはともかく、ボーッとして、部分的にはうっとりしながら新宿を歩いていました。
最近、目に映るものの変化が少し大きいのですが、これはもはや文字で書くことではないかもしれないと思っています。
実際には最近になればなるほど、文字では書けないことが多くなっていて、それは単に表現が難しいという場合もありますが、それよりも、「自分の中にある予測や理想」に関して、その多くが現在の価値観や道徳観とか倫理観、生活の常識、男女の営みの常識といったようなものとは、きっとずいぶんと違うのだろうと考えざるを得なくなっている面はあります。
それを私自身がそう思うこと自体は問題なくても、書くことによって、場合によっては、気分のよくない感覚になる人もいるかもしれないと思うからです。
私は今は「反対の感情」というものをあらわすことをなるべく避けたいと考えていて、それでも何かを書いていると、ものによっては、人の感情に反してしまうこともあるとは思いますが、少なくとも最近は「自分の思っていること」に関しては、むしろ昔より、それをあまり表にあらわさなくなっているかもしれません。
自分自身の体験のことについてもあまり素直に書くと、
「ああ、ついに本格的に頭がにイッてしまったか」
と思われるのもシャクだし(誰に対してシャクなんだよ)、最近は「言わざる体制」というものが少しずつ構築されてきているかのようにも感じます。

新宿の話に戻ります。
人との待ち合わせだったんですけれど、新宿の待ち合わせ場所のひとつに「紀伊國屋書店の前」という場所があって、そこで待ち合わせだったんですが、実はそこに行ったのが十数年ぶり。
「ほお、これが紀伊国屋!」
と(本当に東京に30年住んでるのかよ)、せっかく来たのだから、何か本でも買おうと店内を歩きました。
そこで「ふと」あることを思い出したのでした。思い出したのは、埴谷雄高さんが、「自分が日本文学で影響を受けたのは梶井基次郎だけ」と言っていたことでした。梶井基次郎を私はまだ読んだことがありません。
NHK教育テレビが 1995年1月に放映した、『ETV特集 埴谷雄高・独白「死霊」の世界』でも埴谷さんはそのことを言っています。その場面は、YouTube の、埴谷雄高独白 死霊の世界(13)の 1:00くらいのあたりから始まります。
文章で書き出してみました。

「僕は非常に困ったことに、宇宙好みということがあって、人間を通過して宇宙にまで行かない思想は本当の思想じゃないと思ってるんですよ。
梶井は、生物全般、そして、存在全般が暗闇から光にはいって、また暗闇に行っちゃうんです。この「出現」のほうを尊いというべきか、「消失」のほうを残念というべきか、哲学はそこでわかれるわけですけれど、そういうことを印象づけるようなことを書いている。梶井は宇宙論など考えたことなんてないんですよ。でも、天才っていうものは通ずるようになってるんですよ。やがて。
どんなに新しい宇宙論が出ても、そこに通じるようになってる。ホーキングの前にちゃんと梶井がやってる。それが天才というものなんですよ。本人がそれを自覚しているわけじゃない。
(中略)
そこまで梶井を持ち上げるのは、あと 100年くらい経たないとだめですけどね。」
その時から梶井基次郎を読もう読もうとして、15年経ってしまいました。
とにかく「小説」と名のつくものが若い頃から嫌いで、上の埴谷さんの「死霊」だって、上の NHK の番組を見てから、古本屋で買ったものの、この15年間、いつも第一巻の3ページ目で挫折します。この 15年ずっとそうでしたので、今後もそうでしょう。
それ以上読み進めるのは無理だと最近理解しました。
でも、本棚の一番目立つところに「死霊」は並んでいて、たまに拝んだりして・・・そうですね、なんかこう、祭壇みたいな感じになっています。

なお、一度も通して読んだことがないにも関わらず、あまりに埴谷さんが好きなために、今では「死霊」の内容は「未完分」を含めて、すべて推測と創造の上で、私の中にあります(「死霊」は作者死去により執筆50年目の第九章で中断)。
「死霊」の最終巻となるはずだった第十二章は、ジャイナ教の教祖マハーヴィーラと仏教の始祖ブッダが宇宙論の論争を繰り広げて「未出現宇宙の出現」に迫る内容である予定であることを生前の埴谷さんは対談で語っていましたが、その後の展開も最近の私の夢の中では出揃ってきました。
それはともかく、その埴谷さんが日本文学で唯一、影響を受けたという梶井基次郎。
さすが、天下の明治屋・・・じゃねえや、紀伊国屋。
岩波文庫のコーナーですぐ見つかりました。
短編しか残さなかった人のようで、短編が九篇入った文庫本です。
その後、紀伊国屋の入り口のところに立って、読みやすそうなのを探していましたら、途中でパッと目が止まった小説があって、それは「瀬山の話」という 1924年に書かれた短編でした。有名な「檸檬」の前の作品だそう。
読むと、この「瀬山」というのが梶井基次郎の分身であることはわかるのですが、読めば読むほど、「これって昔のオレそのものじゃん・・・」と、かなり身に迫るものがあるのでした。梶井基次郎は相当むちゃくちゃな生活を送っていたようですが、しかし、文体には幸福感がまったく漂ってなくて、非常に「重苦しい」。
現実の生活に何度も現れていたかもしれない様々な幻覚現象のようなものや(小説の様子を見ると、梶井基次郎は今でいう不安神経症やパニック障害を持っていたと思います)、そして「間違ったスタンスで女性に向かっていく」姿を見ると、単純に、私は、
・紙一重の差だった
と感じました。
あるいは、今後はまだわからないですが・・・・・まあそうなったらそうなったで、いいや。
その「瀬山の話」という小説の中で最も好きだった場目を抜粋してみます。
私も二十代の時にほぼ同じ体験をしています。
体験しているから言えますが、難しい話ではなくこれは単に気狂い話として笑って読んだほうがいいです。
(ここから抜粋)
瀬山の話(1924年)より
一体、何故アといえば、あの片仮名のアに響くのだろう。私は口が発音するその響きと文字との関係が --- 今までついぞ凝ったことのない関係がへんてこで堪らなくなった。
「一体何故(イ)といったら片仮名のイなんだろう。」
私は疑っているうちに私がどういう風に凝って正当なのかわからなくさえなって来た。
「(ア)、変だな、(ア)。」
それは理解すべからざるもので充たされているように思えた。そして私自身の声帯や唇や舌に自信が持てなくなった。
それにしても私が何とかいっても畜生の言葉のように響くじゃないかしら、つんぼが狂った楽器を叩いているように外の人に通じないのじゃないかしら。
身のまわりに立ちこめて来る魔法の呪いを払いのけるようにして私の発し得た言葉は、「悪魔よ退け!」ではなかった。ほかでもない私の名前だったのだ。
「瀬山!」
私は私の声に変なものを味わった。丁度真夜中、自分の顔を鏡の中で見るときの鬼気が、声自身よりも、声をきくということに感ぜられた。私はそれにおっ被せるように再び、「瀬山!」といってみた。その声はやや高く、フーガのように第一の声を追って行った。その声は行灯の火のように三尺も行かないうちにぼやけてしまった。私は声を出すということはこんな味があったのかとその後味をしみじみ味わった。
「瀬山」
「瀬山」
「瀬山」
「瀬山」
私は種々様々に呼んでみた。
しかし何というへんてこな変曲なんだろう。
(ここまで)
(笑)。
この「自分の声の響きに違和感を持った」ことは、私も、パニック障害になったばかりの 21歳の頃に、頻繁に感じていました。
これはどういうことかというと・・・。うまく説明できるかどうかわからないのですが、人間が声を出すと、「まず、自分の中で聞こえる」わけですよね。つまり、他人の声が耳から聞こえるというのとは違うように、自分の声は自分の中でまず最初に聞こえるわけです。
問題は、その「自分の中で響いている声」に一瞬遅れて、「耳からも自分の声が入ってくる」わけですけれど、それに違和感を感じるという現象を私は結構長く感じて若い時を過ごしていました。
実際、物理的にはその音の遅れなど、0.00000何とか秒程度の遅れで、問題視するようなものではないはずですが、「その遅れに気づいてしまう」のですよ。
それで、「自分の中の声」と、少し遅れて「耳から入ってくる声」の差にエコーがかかるんです。これはエコーやリバーブの発生原理そのものなんですが、ただ、0.0000何秒の世界では普通は気にならないはず。
それが気になる。
小説にある通りに、自分の声を「なんて変な曲なんだろう」と思ってしまう。
そのうち、声だけではなく、「全部こんなように存在自体が信用できないのでは」と、今度は怖くなってくる。
そして、自分自身で「本当になんて頭のおかしなことを考えているんだろう」と気づいている。気づいているけど、考えるのをやめられない。
そういう感じだったと記憶しています。
上の「瀬山の話」が書かれたのが 1924年。
今から 90年前ですが、それよりもっとずっと遡っても、こういう訳のわからないことで悩んでいた人たちってのは結構いたのかもしれないですね。
いろんなところがバーストしてくるお年頃と太陽黒点最大期。
まあ、だから、若いお嬢さんとかはこういうような男性には近づかないほうがいいですね(何のシメだ)。