
・guamdaisuki
結構前に、大体同年代の知り合いと飲んでいた時、最近ここでも書く太陽活動のことを言ったりしていたんですね。
太陽活動に特に男性たちは影響を受けるかもしれないと。
そして今、11年の太陽活動の最大期に差し掛かっている。
知人「それは11年ずつやってくるの?」
私 「厳密じゃないけど、大体」
知人「ふーん・・・。じゃあ、次は?」
私 「11年後くらいだと、2022年か2023年くらいじゃないかな」
知人「じゃあ、その時はオレら還暦くらいだ」
私 「((((;゚д゚)・・・・・」
知人「だって、大体そんなもんだろ」
私 「(((((((∩ ゚д゚))))) アーアー聞こえない聞こえない」
知人「耳塞ぐなよ。否定しても仕方ないだろ」
私 「(((((((∩ ゚д゚))))) アーアーあわわわわわわわ ぶばばばばばばばば」
知人「うるさいよ!」
それを聞いて、やっぱり来年あたりに地球は爆発して粉々になって消えてくれたほうがいいとつくづく思った次第ですが、先のことはあまり考えないとはいえ、自分に対しての概念の中に「還暦」という言葉が入ってきては困るなあと。
小学生の頃、「ノストラダムスの大予言」が大流行していた時にみんなが考えていたことは、
・1999年って自分たちは何歳だろう
ということでした。
私は 1963年生まれですから、1999年には 36歳になっていることになる。
それを考えて、「ニヤッ」とするわけです。
「四十代を迎える前に地球は消えてなくなるわけか」
と、むしろ妙な安堵感の中でノストラダムスの大予言の世界を受け入れていた気がします。
その 1999年が実際にやってきたのは、今から12年前で、前回の太陽活動(サイクル 23)の最大期のことでした。 36歳には予定通りになったのですが、地球の滅亡のほうは予定通りには来ませんでした。
ちなみに、小学生くらいから見た「大人の年齢」では、たとえば、15歳なんてのもすごく大人に見える。20歳なんて超大人で、その上の区分は、「大人と老人」くらいの区分しかなくなるわけで、まあ大体、30歳くらいからの人がおじさん、おばさん、そして、大体、「それよりずっと上に見える」とおじいさんかおばあさんという区分しかないと思われます。
このままいくと、じきに私も、「それよりずっと上に見える」という領域に突入していく可能性がある。
私は比較的、自分の年齢に無頓着で、「今、○○歳だ」と意識して生活したことがありませんが、それでも、大体の年齢はわかるわけで、そういう中で上の知人のように、「じゃあ、その時はオレら還暦くらいだ」などという言葉が飛び出てくると、思わず現実を直視できなくなり、耳を塞いで、
(((((((∩ ゚д゚))))) アーアー聞こえない聞こえない
と、やり続けるしかないのですが、しかし、一生、聞こえないと言い続けるわけにもいかないでしょうし、難しいものです。
年齢を重ねた生き方ねえ・・・。
そういえば、上のような「年齢を重ねた生き方」ということについて、昔の人々、 Wikipedia などに出ているような偉人や有名人などの人生を調べていて、何となく近くて、最期なども好きだなあと感じた人に永井荷風という人がいました。
作品を読んだことはないです。
永井荷風は 1959年に胃潰瘍の吐血により窒息死とありますが、私も同じような派手な胃潰瘍での出血を5年ほど前に経験して死にかけています。胃に4カ所同時に穴が開きまして、それはもう見事な吐血っぷりでした。緊急搬送、緊急手術で何とか生還。
私は吐いた直後に咄嗟に下向きに、つまりうつ伏せに倒れましたので窒息はしませんでしたが、飲み過ぎによるものでも、胃潰瘍でも、大量に何か吐く場合には窒息の危険が常にありますので、「どんなものでも大量に吐いたら意識を失う前にうつぶせに倒れる」ということはご記憶されておくといいかと思います。
それはともかく、この永井荷風の記述の最後に、
故人は吉原の遊女の投込み寺、荒川区南千住二丁目の浄閑寺を好んで訪れ、そこに葬られたいと記していた。1963年5月18日、遊女らの『新吉原総霊塔』と向かい合わせに詩碑と筆塚が建立された。
私は遊女と遊ぶことはない人生でしたが、当時生きていたら、きっと同じような生き方をして、同じような死後を希望したかも。
ただまあ、それから時代は進み、今のこの現在。私もいろいろなことを学ぶことができて、つまり、私が死ぬ時には、さすがにお墓も埋葬も特別な式も自分には要らないと思っていますが。
幽霊の構造
そういえば、先日、「幽霊の物質の正体」というものについて、少し気付いたことがあって、もしかすると幽霊の構成物質と、それが見える見えないの理由ということが説明できる可能性というものはあるのかもしれません。
私は「心霊写真」というものが不思議でした。
特に最近になって、その不思議さが以前より大きくなっています。
視覚や松果体などのことを勉強していると、目に見えているものが「光の反射と屈折により見えている」ということはわかるのですが、しかし、それは個人差がある。なので、「見える」、「見えない」が個人同士の違いの話ならわかるのです。
しかし、写真はそこにすでに「写っている」。
写真は光が反射したもの、あるいは部分的に自ら光を発光しているもの(火や光など)を、物理的というのか光学的というのか、とにかく転写しただけのもので、そこに写っているものは「光学的には存在している」。なのに、目には見えない。
こういうことが起きるのはどうしてなのだろうと。
心霊写真、あるいは「単に変なものが写っているだけ」というものを含めれば、不思議な写真はあまりにありふれていて、ほとんどの人が経験があるほどではないでしょうか。フェイクとか、存在するとかしないとかのレベルの話ではない。
最近ふと「心霊写真はシャッタースピードと関係しているのかも」ということを感じました。
実は、それまで人々が肉眼では見えなかった現実の世界を見ることができるようになったのはシャッタースピードによるところが大きいのです。
たとえば、鳥の飛んでいる姿を撮った連続写真(シャッター開放速度が短い)、あるいは街の風景を長くシャッターを開放して撮影したもの(シャッター開放速度が長い)では、「同じ街の様子を写していても、写っている世界はまるで別のもの」という事実があります。

▲ シャッター速度を落として夜景を撮影すると、動いているもの(人や車)は写らず、止まっている物体とライトの動きだけが残り、「通常見えている風景と違う風景」になります。幻想的な風景となるので、夜景撮影ではよく使われます。

▲ 飛ぶ鳥はものすごい早い速度で羽の運動を繰り返しており、その光景は肉眼ではまったく見えません。写真でシャッター速度を上げて撮影して「はじめて」人はその様子を見ることができます。
このような原理で、実は日々の生活の中では、「肉眼で見えていないもの」は大変に多く、シャッター速度の変化で「現実のものとして現れる世界」というのはたくさんあります。幽霊の構成物質も多分そういうもののひとつだと思ったという感じのことです。
これは、動きそのものということもありますが、仮に幽霊も他の物質同様に「光を反射させているからこそ写真に転写される」というようなものだとすると、反射する物質は減衰期のようなものが異常に早い物質だったりするのかもしれないし、あるいは、幽霊というのが自ら光を発しているとするなら、その発光速度が異常に早い明滅を繰り返しているかどちらかだと思いますが、なんとなく前者だと思います。
物質の存在時間が異常に短い(あるいは明滅する)ために、肉眼では見えない、あるいは見えにくい。
また物質には個々の減衰しやすい気温、あるいは風や磁気などの条件があるように思いますので、いくつかの物質を想定して、かなり広範囲な条件とシャッタースピードで何百、何千パターンかやってみれば、常に撮影することが可能となったりして。
とはいえ、そんなことに意味があるのかどうかわからないですが(仮に幽霊の構成物質が特定できても、どうして幽霊が存在するのかはわからないので)。
まあ、神様なんかと同じで、「そちらとこちら(人間)のお互いの存在に対しては不干渉」ってのが一番な感じはいたします。
この「幽霊のこと」は、この間の日曜(5月22日)に奥さんのお父さんのお墓参りに行った時に、気付きました。ちなみに、奥さんのお父さんは 42歳の時と非常に早くに、奥さんが小学生の時にご病気で亡くなってしまいました。その命日近くでした。
その際に「浮気心に浮つく憎き娘の相手(私)」と亡きお父さんの怒りの心霊パワーが激突した話などもありまして、そのうち書きたいと思います。
お坊さんも巻き込んだ一大心霊戦争でした(苦笑)。
すごかったですよ。
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