僕」という言葉があります。主に男性が自分のことを言う際に使う言葉としての意味合いが強いですが、この僕は「下僕」に使われるものとも同意のようです。
辞書には3つほど用例が出ていて、その「2」は、
2. 下僕、下部、召使い、奴隷。
となっています。
奴隷という文字も見えます。
どうして、この世において、あるいは日本語において「僕」という言葉が男性を自分で表す言葉となったのか。
「何に対しての下僕」なのか。
ところで、次に挙げるような動物たちに共通の条件がおわかりでしょうか。
オシドリ
キジ
クジャク・・・やめましょう。
これはいくらでもいます。
つまりもルックス的にオスのほうがメスより色彩が派手だったり、いわゆる美しい生物たちのことを挙げたかったのですが、実際には非常に多い事例で、枚挙できるものではありません。
「ほとんどの動物でメスよりオスが美しい」とさえ言われています。
あるいは、多くの魚類や昆虫類に見られるように機能や大きさ自体が違うオスとメスというものも多いです。

▲ ホタルもオスメスどちらも光るとはいえ、光って飛んでいるのは基本的にオスだけ。
上の「僕」という男性の一人称が、男性が何に対しての「下僕」なのかということが他の動物の例でわかる感じはします。
少なくとも、他の動物のオスは「メスにルックスで仕えて」いる(ように見える)。
しかし、人類はそれらの動物とは違う。
「違う」というのはルックスの美しさの問題そのものではなく、「色彩的に、あるいは芳香などで美しく飾ろうとするのは主に女性のほう」というような感じがあります。細かい部分を別にすれば、私もこれは大まかでそうだと思います。
女性、特に化粧などにもとても凝る日本人女性などには言えると思いますが、「美しさを自分で手がけるのは主に女性」ということです。
では、他の動物のように外見ではメスを刺激しても喜ばせてもいない人類の男性の役割は?
地球上で「僕」と自分を読んで、下僕として自分を見たている人たちの役割は?
「僕」の方向が「女性の方向に向いているらしい」ことは他の動物の例を見ても明らかで、また、一般的に女性が「僕」とは言わない点からもそれはわかるような気がします。
ここにおいて、 In Deep で執拗に書いていた「認識」の問題に突入していきます。
すなわち、女性が「人類としての美」を自分に見立てていく中で、「それを心底認識して評価しているのは誰か?」という問題です。
ちなみに、女性の方々にはあまりわからないことだと思うんですが、実は、男性の、女性に対しての希求というのか、それを憧れ追い求める気持ちというのは、もうモノスゴイのですよ(全員や全世代ではないでしょうが)。
最近、私は周囲の男性たちを見ていて、そして彼らも年をとってきたことで気付いたんですが「男性の女性に対しての希求は年齢と共に衰えない」というのは事実だと思います。加齢はどうやら「関係ない」。
しかも、そこから「性」とか「性欲」を完全に除いても、女性への憧れと希求の衝動はもう凄まじいものがあるのです。ホントーにすごい(笑)。
それは自分でも強烈によくわかります。
先日恥ずかしながら書きました「出会ったこと自体が失恋」という相手をはじめて見た時、その美しさに対して「軽く失神する気配」を自分で感じました。思い出すだけでもそれを感じます。
女性同士でも互いの美を認識するでしょうが、仮にそうであっても、このような「その美への異常なまでの評価」というものはやはり男性サイドのものだと思うのです。それは、男性「性」が女性「性」に対して持つ強烈な憧れが評価の中にあるからだと感じます。
これは「逆はない」です。
つまり、女性性から男性性への美の評価に関してですが、好きとか嫌いとか、カッコイイとかそういう問題ではなく、構造上、それはないか、あるいはあっても、「男性が女性を認識する」こととは全然違うものだと感じます。
さらに言うと、我々の「僕」というのは、人間の女性自体への下僕でもなく、その「美」だけへの下僕でもなく、
・女性「性」への下僕だ
と思うのです。
この母なる大地や地球が女性性である可能性は何度も書いてきましたが、その上に存在している男性には、
・染色体上の欠陥(いつかは消滅する)
・ミトコンドリア DNA で子孫を遡れない
という大きなふたつの生物学的欠陥を抱えています。
なのに、地球にこのように存在している。
その理由。
それは「女性「性」に仕えるため」なのではないかとしみじみと思います。すなわち、それは大元の地球そのものに仕えるという意味なのではないかとも思います。
上に動物の様々を挙げようとしましたが、こちらはどういうものかおわかりでしょうか。
・相撲
・歌舞伎
・トンネル工事
これらは簡単にいうと、「その現場に女性が上がってはいけない」とされているようなものです。
神聖な場所だからとかいろいろと言われてきましたが、「地球が女性性」だと考えると上の理屈は非常にわかりやすいです。
たとえば、オシドリのオスとメスがいます。
オスが派手で、メスがそれを愛でるとします。
相撲や歌舞伎が「オス」で、その他をメスとする。
つまり、奉仕する側とされる側が厳密に区分けされている。
この考え方がひとつ。

▲ オシドリ。派手なほうがオス。
もうひとつは、「女王と奴隷」というフィールドで、一般的には「奴隷のいる場所に女王は入らない」という単純な話です。あるいは「地球と下僕の関係」といってもいいかもしれません。
「僕」という日本語を持つ日本は、本来はこれらのことを相当具体的に実践してきた民族だったのかもしれません。
地球に奉仕するのは男性という意味の実践。
以前、 In Deep の「宇宙の「自殺」を食い止めるべきかそうではないのか?」という記事に、
宇宙は相当に悲しい気持ちを併せ持つ存在として誕生した可能性
と書いたことがあります。
これは様々な面から見ても今もそうだと考えています。
そして、これは多分ですが、「男性にはそんな背景はない」と。
男性「性」はもともとの悲しみを持っていない。
だから、選ばれたのだと思います。
「僕」として。
先日の記事で「気狂いピエロ」のことにふれましたが、男性という存在そのものが、「気狂い」であり、また「ピエロ」であるということだと思います(そういう意味ではすごいタイトル)。
だから、奉仕できる。
いや、男性はそれではじめて楽しく生きられるものなのかも。