2011年01月28日

ペアである自分(4)


「ペアである自分」記事
ペアである自分(1)
ペアである自分(2) 宇宙の場所
ペアである自分(3) 人間の「見る」という行為
ペアである自分(4)





私的な前置き

いろいろあって(気分的な問題ですが)、ここ1ヵ月くらい誰とも会わない生活が続いています。家族がいるので、子どもと奥さんとは会いますが、外で誰かに会ったりしなくなっています。一人で飲み歩くのも好きな人だったのですが、考えれば、それもずいぶんとしていないという生活になっています。

私は以前、劇団「のようなもの」をやっていて、それと関わってきていた人たちとは毎年忘年会をやっているのですが、昨年は多分、ここ 25年くらいで初めてそれをしませんでした。どうも最近、「集団」と交われなくなっています。

さて、そんなわけで、あんまり人と会っていないのですが、昨日、昔の知人から「そっちのほうに行くから会いませんか」と電話をもらいました。

彼は 20年近く前に、その劇団のようなものを手伝ってくれていて、キャストで出演したこともあります。私の当時のイベントは苛酷だったものが多く、彼もそのイベントの際に舞台で肋骨を折ってしまったことを覚えています。

その彼は、同時にずいぶんと以前から、原宿に 6%DOKIDOKI (6パーセントドキドキ)というショップを持っていて、お店をやると同時に、若い人たちへファッションやカルチャー発信のために世界中を回ったりしているようです。

彼のファッション文化は、いわゆる「かわいい」というキーワードの文化の世界ので、私はそのファッション世界を知らないですが、彼とは、若い時の価値観の基本となった趣味が非常に似ていた人でした。私よりずいぶん年下ですが、私同様に 1980年代の過激なアンダーグラウンド文化に触発されて生きてきた人でした(ハナタラシとかギズムとか Survival Research Labs などのユニット名を知っている方なら何となくわかるかもしれません)。


ちなみに、当時、私のやっていた劇団のようなユニットは上のような趣味や価値観の受け皿のひとつとなっていたせいか、いろんな人たちがいました。いわゆるエリート大学の学生の人たちから暴走族上がりみたいな人とか、学生運動のリーダーみたいな人とかいろいろな人たちがいました。みんな、いろいろと考えて行動のできる人が多く、多分、(中心にいると思われていた)私が一番何も考えておらず何の行動もしていなかったと思います。


思えば、当時は皆さんよく手伝ってくれたなあと思います。私のその劇団のようなものは、私も含めたスタッフ・キャスト全員すべてノーギャラで、名声などともまったく無縁(私が名声とか有名とかいう概念が嫌いだったので)、何の将来の糧にもならない活動団体ではあったのですが、私の人生の大半はその活動に凝縮されています。

その団体は数の「23」がつく活動団体ですが、この「23」という数字に私のすべての人生が込められていると言ってもいいです。

なので、それをやっていない今は定年後ですね(笑)。
お茶を飲みながら植物をいじる毎日で構わないと思っています。


さて、電話をくれたその彼も、当時手伝ってくれていた中のひとりでした。昨日、彼が私の地元まで来てくれて、近くの飲み屋で会ったのですが、彼は手に本を携えており、

「実は今度、本を出すことになったんです。それで、ぜひ読んでもらいたくて」と、私にその本を持ってきてくれたのでした。

それが私に会いに来た理由でした。彼が初めて書く本で、自伝なのだそう。聞けば、1月24日のYahoo! ニュースでも取り上げられていたとのことで、なかなかの話題ぶりのようです。

「すごいねえ」などと言いつつ、飲みながら昔話などしていました。その本のタイトルは「家系図カッター」という本で、書いた彼は増田セバスチャンといいます。20年くらい前に初めて会った時からこの名前を名乗っていました。


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▲ その本。


さて、知り合いの話で前置きが長くなりましたが、彼はその本では特に、自分の非常に複雑な家庭環境を振り返りながら、「新しい家族論」を提唱したいと言っていました。


家族・・・。

以前この「ペアである自分」ということを最初に書いた時に、「そのことに気づいた直近の出来事は自分の子どもと関係する」というようなことを書いた気がするのですが、自分の子どものことを書くことをためらっていました。

しかし、やはり、書かないで通るのも不自然ですので、少しずつ書いてみたいと思います。
もしかすると、この項目だけで膨大になる可能性があります。

ちなみに、私の子どもは5歳の男の子で、平成17年7月7日に生まれています。西暦は2005年で、これも足すと 2+0+0+5は 7で、やたらと7と縁がある子どもで、生まれた時には「パチンコがよく当たりそうな子だね」と私は言っていました。


ところで、子どものことを話す場合、まずは、自分の子ども時代にふれないと始まらない気がしました。

私の幼少期のことなど書いても本来は仕方ないのですが、これは最終的にはこれまで書いた「松果体」と、そして「成長と松果体」という問題とも関連するような気がするのです。「気がする」と書きましたが、まったく無意味な可能性もあるのですが、書いてみたいと思います。

今回は、自分の幼少期のことだけで終わるかもしれません。


松果体と赤ちゃん

人類は地球上の生物の中で「大人に育つのがもっとも遅い」うちのひとつだと思われます。他の動物なら、生まれてすぐに自力で移動できたり、あるいはエサを採ったりできるものも多いですが、人間が自立するまでには相当な時間がかかります。

「自立」という定義は難しいですが、他の生物の例を当てはめると、「自分で移動したりエサをとったりしながら生活できる」ということかとも思います、

それがどのくらいかは人によって違うでしょうが、少なくとも10歳くらいまでは難しそうです。人間は暑さや寒さに対しての保護対策ができる必要がありますし、エサを食べるための(切ったり加熱などの)知識やテクニックも必要です。

たったひとりでどこかの荒れ地に放っておかれて生きていける年齢となると、やはり 10歳程度の年齢くらいになるのではないでしょうか。ただ、自分の記憶では小学校の低学年の頃には、あちらこちらの森林に「自分だけの基地」を作っていたので、食べもの(無毒・有毒)の知識さえあれば、もう少し下の年齢でも大丈夫かもしれません。

そういう意味では、 18歳だか 20歳だかで行われている成人式というのも、8歳くらいでやってもいいようにも思います。もっとも、そんなことを、「国家から、あなたは成人です」と指定されるのは気持ちいいものではないですが。

いつ自分が成人になったくらいは自分で決めればいいことだとは思います。

ただ、2歳や3歳では、本人が「自分は大人」だと思っても、現実に食べたり暮らしたりする上での不都合が生じるはずで、ある程度の年齢区切りは必要なのかもしれません。


しかし、「なぜ人間はこんな子ども時代が長いのか」ということはよく考えます。

赤ちゃん期間だけでも2年近くある。
では、赤ちゃんというのは運動能力の足りない単なる小さな人なのか

私は先日も書いた「松果体」の「進化と退化」という問題と、「赤ちゃん時代」というのはかなり密接な関係を持つと考えています。

そして、今の時代では失われている(かもしれない)「赤ちゃんへの教育」というはあるのだと考えます。それが何か私にわかるわけもないですが、いつかそれがわかれば、松果体が退行することなく、「人間は成長していく」と確信しています。

いつの時代にか、それがわかる時がくるといいですね。

松果体の役割は「見る」ことだと思うのですが、たとえば、赤ちゃんを育てていると、「大人とは違う部分を確実に見ている」ことがわかります。この赤ちゃんが「目での視界」を得るまでの間に見ているものは、現在、成長と共に消えていくようですが、それは人間の生活の中で本来は消えていっていいものなのかどうか

それを考えます。

私が幼児期に過ごした中に、それらの何かもあるのかもしれないなあと。
いや、多分ないかもしれません。

言えるのは、現在の日本の社会での規範的な生き方から比べると「お話にならない成長期」を過ごしたことだけは確かです。


小児ぜんそくと空想癖

私は自分に子どもが生まれる時に「これは遺伝してほしくないなあ」と思っていたことが2つありました。

・小児ぜんそく
・不安神経症(的な気質)


です。

ぜんそくというのは、簡単にいうと「発作の時に呼吸ができなくなる」もので、つまり大変に苦しいものですが、本人よりも看病する周囲がつらい感じがします。子どもが息ができなくて苦しむ様子を見続けるわけですから、親は大変につらかったと思います。

まあしかし、小児ぜんそくは病気として考えると良いことなど何もないですが、私の子ども時代の精神形成には大きく関わっていて、後の私の空想癖や、規則嫌い、集団嫌いといった側面がすべて形成される最初だったように思います。

ぜんそくは生まれてすぐに発症して、7歳くらいまで続きましたが、その間、たとえば、幼稚園など半分もいけず、家で横になっていることが多かったです。当時としては珍しく、両親が共に働いていて、私は長男でしたので、その時にはいつもひとりでした。

しかし、当時は周囲の近所の付き合いが密接で、ひとりでいることに特に問題はありませんでした。

家でひとりで寝ていても、他の家の子どもやお母さんたちが見にきてくれたりということがあり、過ごしやすい時代ではありました。周囲何軒の家は、子どもたちはどこの家でも出入り自由でした。

それでも、家で寝ている時はやはり一人で、そこで人からもらった絵本などをずっと読んでいました。多分、一番好きだったのは「カロリーヌの冒険」シリーズというものでした。

理由はわからないのですが、私は文字と言葉を覚えるのが妙に早かったようで、4歳くらいの時には読んでいた記憶があります。当時は幼児教育なんて言葉もなく、文字や数字を子どもに教える大人はいなかったですので、どうやって覚えたのかはわかりません。

いずれにしても、カロリーヌの冒険では、主人公のカロリーヌという女の子が動物たちといろいろなと場所で騒動を起こしますが、「みんなで月に行く」話があって、それが大変に好きでした。ネットで見ると発行は昭和42年だったようです。


「幼稚園に半分くらいしか行けなかった」とありますが、実際にはぜんそくでも発作にならない時には何でもないのです。なので、実際には「休むことに味をしめて次第に行かなくなった」というほうが正しいかとも思います。

幼稚園は「最初に集団での社会ルールを学ぶ場所」というようにされていますが、その「最初」でつまづき、「集団での社会ルール」は私には根付きませんでした。


みんなで同じ服を着て並んで幼稚園に登園している姿を見て、「奇妙だなあ」と思ったものです。カロリーヌの物語には「みんな同じ服を着ている」ことなどなかったからです。宇宙へ行く時でさえ。

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▲ 「カロリーヌ つきへいく」より。



それでも、実際に体調の悪い時も多くて、そういう時は本を持つのも難しく、今度は寝ながらずっと頭で絵本のことを想像したりします。下手をすると、何日も頭の中の想像だけの生活が続いたりしました。

このあたりで「空想する日常」というものが普通になってきます。

 ・集団を変だと思い
 ・強い空想癖がある

と、その後、社会で苦労することになりやすいですが、私は多分、この4歳の時のまま後の数十年を過ごした気配があります。

なので、今、私が日本の社会でこのように普通に生きていられること自体が最大の奇蹟であることは感じます。

その頃、私は自宅の裏手にあった、孤児院(現在の児童養護施設)の子どもたちと仲良くなり、幼稚園の子たちより孤児院の子どもたちが好きになり、その孤児院に入り浸る生活になったりしますが、これは省きます。

ぜんそくが治ったのは、小学3年くらいの時だったと思いますが、ぜんそくが治って、最もウンザリしたことは「毎日学校へ行かなければならない」ことでした。

それでも小学校は何とか出て、中学はかなりウンザリしていましたが、幸い(?)なことに、この頃(1970年代の中頃)、学校は校内暴力の走りであり、学校全体が荒れていました。授業は平気で崩壊し、グラウンドを誰かがバイクで走り回っているような日々でした。

なので、出欠を含めて一種いい加減な空気が漂っていました。

そして、私は私でこの頃、音楽と知り合い、その関係での友人もできたことにより、一応、中学に行く理由もできました。

この頃は周囲は本当に荒れていました。
でも、それに加わることもなく、まして非難することもなく、淡々と音楽を聴いて生きていました。



パンクと賛美歌に囲まれて

中学の次は高校があります。

もうこれ以上、学校だとか何だとかに行くのはさすがにいやで、親に「高校に行かないのはダメですかね」と話したりしていました。

父親は教師でしたが、決して教育にうるさい人ではなく、勉強しろと言われたことは多分、一度もありません。しかし、この時だけは、「高校と大学は行っておきなさい」と言われて、結局、高校へ進学しました。

少なくとも制服だけはもうイヤだったので、私服の高校なら行くということに決めました。今でもそうだと思いますが、北海道には私服の高校が結構あるのです。

高校は進学校でした。また3年間、学校で過ごすのかと思うとウンザリしましたが、高校の単位の取り方などを覚えることによって、次第に「行かなく」なり、要所要所でだけ行くようになりました。当時は私が昼頃に出向くと、窓から見ていた生徒達に拍手で迎えられたものです(笑)。こちらも「いやあ、どうも皆さん、お騒がせして申し訳ないです」と言いながら入場していました。

当然、試験などほとんど0点で、数学や物理の試験の時などは試験の前に「先生、どうせ問題読んでも意味がわからないでしょうし、お手数かけるのも悪いですので、答案用紙はいらないです」と言ってました。

「まあ、座っとけ」と言われるわけですが。
ちなみに、追試(答えがわかっている)があるので、本試験で全部0点でも落第はありません。


しかしまあ、中学でも高校でもクラブ活動は全部を通して行っていて、特に高校では今でも信じられないですが、私は「合唱部」に所属していました。総勢80名の大規模な合唱部で、全国大会への出場を続けていた当時の名門で、稽古は1年のうち、夏冬休みを含めて 300日以上あったと思います。

そして、後半ではベース(男声の低音)パートのリーダーということになり、休めなくなりました。そんなわけで、「授業は休んでも、合唱の稽古には出る」という日々が続きました。私が初めて東京に来たのも、 NHK合唱コンクールの全国大会に駒を進めて出場した時でした。

「合唱部」なんてのは、もう真面目な人たちの集団そのもので、「 80名の真面目軍団」という趣がありました。そこの合唱部の部員には、日曜日には地元の教会で「賛美歌を歌う」という義務というか習慣があって、交代で教会に行っていました。

私も白い天使みたいな服を着て(笑)、賛美歌を歌っていました。

さて、合唱を歌い、賛美歌を歌うという日常と同時に私は、「パンクバンドに所属」していました。しかも、2つのバンドに入っていました。ひとつはシンセサイザー、もうひとつはベースでした。

すべて他の学校の人たちのバンドで(私はどちらかというと、自分の高校のエリート予備軍みたいな人たちの気質にどうしても馴染めず、プライベートでは他の高校の人といることが多かったです)、地元のコンサートか何かで誘われて入っていました。かなり凶悪な感じの人々で(ルックスもコワイ)最初は躊躇したのですが、彼らのうちのひとりが「シンセサイザーをあげる」と言って、バンドに入ることになりました。

私は幼少の頃、ピアノを習わされていたことがあり、キーボードが弾けたのですが、当時、最先端の楽器であるシンセサイザーに憧れていました。

しかし、非常に高価だったシンセを買うことなど不可能だったのですが、そのバンドのリーダーは地元の不動産屋の社長のドラ息子で、

「うちにシンセがあるけど、誰も弾けないからあげるよ」

と言うのでした。

当時の北海道の田舎では、男性でキーボードを操る人は少なかったのです。
まして、パンクなどのアンダーグラウンドなフィールドでは全然いなかった感じでした。

そのシンセの当時の値段は恐ろしいものだった思います。
自分では何をどうやっても手に入らないものでした。「バンドに入ってくれればそれをあげる」と。断る理由が見つかりませんでした。

そういう即物的な理由でバンドに加入しました。

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▲ その時にもらったシンセと同型の写真。日本のシンセサイザーのかなり初期のものです。まだ「音程」はありませんでした。


高校生のバンドといっても、彼らはプロを目指しており、デモテープを作っては、レコード会社に売り込みをしていました。なので、練習量も大変に多かったです。

バンドの稽古は、合唱部の稽古が終わったあと、つまり、夜にやっていました。

合唱部の稽古が4時くらいから7時くらいまで毎日あり、その後に電車で別の町に移動して、夜11時くらいまでバンドの練習をして・・・という日々がずっと続きました。

ちなみに、ベーシストは医者の息子だったりと、みんな経済的に恵まれた環境で育った人たちでした。
それだけに、「お金に執着がない」という面があって、そのあたりは気持ちよかったです。

それにしても、高校にいる時とその後の自分は、自分自身は同じなのですが、「いる環境」が全然違う。

進学校である高校の学生の行動というものを昼間見たあとに、今度は「そうではない人たち」の中にいる。彼らは、高校生ですが、車を乗り回し、スナックでお酒を飲んでいる

「あんたらは花形満か」

と、私はよく言っていましたが、規則というものはある場所にいくと崩壊しているという現実をこの時、初めて知りました。

その高校の授業は完全に崩壊していたようです。

そして、何とか高校も卒業できました。

成績は常に、下から1番か2番でしたが、次は親が言っていた「大学までは行きなさい」という問題になります。農家を継ぐなどの特別な理由がない限り、大学への進学率はほぼ 100パーセントの高校でしたが、当時の先生に言わせると、「ここまでひどい成績の奴は見たことがない」ということでした。

しかし、私はこの頃、大学に行きたいと思うようになっていました。

正確にいうと、「東京に行きたい」気持ちが大変に強くなっていたのです。

当時のマイナー文化やアンダーグラウンド文化の大半は東京か大阪か京都で展開されていました。特に私が好きなものは、東京か京都かのどちらかのものでした(意外かもしれないですが、1980年代の京都はアンダーグラウンド音楽や文化の中心地のひとつだったのです)。

なので、「東京か京都に行きたい」と考えるようになりました。

その後の経緯はともかく、東京の大学と京都の大学を受けて、そのうち、東京の大学に合格して入ることになりました。正直言って合格した理由はよくわかりません。試験問題はほとんど三択か五択などのマークシートだったので、そのあたりにポイントがありそうです。(適当に馬券を買ってもたまに万馬券が当たるような)

そして、私は東京に来て、思っていた以上に東京に馴染んで生きています。

ちなみに大学はすぐに(4月のうちに)行かなくなり、どういう扱いかわからないですが、退学届けは出していないので、除籍ということになったと思います。


不安神経症

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▲ 私の人生に決定的な影響を与えた森田正馬さんの「神経質の本態と療法」。1900年代の最初の頃に書かれたもので、25年くらい前にこれを古本屋で偶然見つけて読んで死ぬほど楽になりました。仮に、神経症的なもので悩まれている方なら必読です。


長くなってしまったので、これは簡単に書きますが、私を長いこと呪縛していたことに、この不安神経症とパニック障害があります。

どちらも明確に発症したのは21歳の時ですが、しかし、実は子どもの頃から「ずっとその日を予感」し続けて生きていました。これはスピリチュアル的な意味での予感ではなく、「自分の心(頭)はどこかおかしい」と、小学校くらいに気づいていました。

中学では「幻聴」が聞こえていた日々があり、自分で「こりゃ頭イッたかな」と考えて、それから市の図書館に毎日通って「精神医学コーナー」の本を読みあさる日が続きます。

傍から凝れば、「毎日勉強している真面目な学生だなあ」と見られたことでしょうが、確かに勉強はしているのですが、日々、「神経症とその気質」とか、「アルコール依存症」とか、それらの本を読むことが目的でした。

何ヶ月も読み続けたことにより、多分、当時の日本の中学生の中では1、2を争う「精神病の知識」を身に付けたのではないかと思われます(笑)。受験などが近づくにつれて、みんなで図書館に行くという習慣が当時ありましたが、行くのは行くのですが、私ひとりだけ「うつ病とは」などを読んでいるのでした。

で、その中で、幻聴を伴うものというのは今でいう統合失調症や、あるいは薬物の依存症のようなものを含めて、あまり楽観的ではない病名が続きます。

「うーむ・・・なるほど、オレの行く末はそっちだったか」

と、中学生ながらに何となく諦観にも満ちてきて、ますます学校や勉強は適当になってきました。しかし、「図書館というのは思ったよりも面白い」ということも、この時知りました。

精神病の勉強に疲れた時は、その棚の周囲のコーナーを見たりしましたが、「精神医学」の両隣は「犯罪」と「宗教」コーナーでした(笑)。お陰でいろいろな新宗教の教義などを知ることができました。犯罪コーナーでは、「日本の主なバラバラ殺人事件」なども知ることができました。

当時の高校受験の科目が、「精神疾患、異常犯罪、宗教とカルト」の3科目だったら、トップ合格していたと思います。

いずれにしても、「将来的にはオレは発狂するか自殺するんだなあ」と考えると、「まあ、正気のこの日々を大事に生きよう」とむしろ思いました。

「日々を大事に生きる」ということは、現実を徹底的に重視するということで、「夢」だとか言っているヒマはないのです。夢を将来に持っても、その頃には自分は狂っているか自殺していると考えると、夢など持たずに「すぐに実行する」という日々が始まった気がします。

夢は今の瞬間だけ。
そう考えて生きてきました。

そして、21歳の時には予想通りに神経疾患になったわけですが、ただ、予想していた発症とは違うことにはなりました。

しかしまあ・・・この不安神経症やパニック障害。

確かに子どもに遺伝してほしくないほど強烈につらいものでしたが、しかし、これにより得たものの知識や経験は異常なほど多いです。

たとえば、パニック障害の非常にひどい発作の時には「風景が違って見える」というようことがあります。たとえば、道路や建物などが歪んで見えたり、といったことです。当然ながら、目に映る実際の光景が「歪む」はずはないわけで、体内のどこかで「風景を歪ませている」。

今思えば、このあたりも松果体などとの絡んだ部分を感じますが、それよりも大事なことは「実際にその風景を見た経験がある」ということです。

あと、上に「幻聴」と書きましたが、中学生のその時以来、一度も経験していないのですが、幻聴というのはものすごいですよ。「まったく隣から話しかけられている声そのもの」なのです。

授業中などに声をかけられて、ふっと振り返って、誰も話しかけていないことに気づいても、初めて「幻聴か」と気づくほどリアルでした。図書館で精神医学の本を読むほど心配したのは、この「幻聴のリアル性」にありました。


 ・ないものを見ている
 ・ないものを聴いている


この2つを別の角度で経験してきたわけで、実は最近まではこのどちらも「単なる病気」(笑)と考えていましたが、病気は病気ですが、最近自分の考えている「松果体の役割」といったものに対しての実感的な体験として役立っているのかなあと思います。

「お前もやるじゃん、パニック障害」と言いたいですね(イヤだけど)。

また、不安神経症とパニック障害で学習した最大のことは「逆らわないこと」でした。上に表紙を載せた森田医師の森田療法は100年以上前に考えられたものですが、そこには「なすがまま」という概念があります。

この「なすがまま」をある程度体得できたことは非常に大きなことです。なので、今の私はまるでとらえどころのない「意志や主張を持たない人」のように見えることもあるようですが、その通りです

私に意志や主張はなく、あってもすぐに曲がります
すべては前から後ろ、上から下へ流れていきます。
それによって、不安神経症とパニック障害から生き残りました。

そんなわけで、確かに遺伝として子どもに伝わってほしくない、小児ぜんそくと、不安神経症ではありますが、今の私(それが良い悪いは別として)を明確に形作ったものではあります。

なので・・・感謝したほうがいいのかな。

ちなみに、「ペアである自分」というものを最初に書こうと考えた理由のひとつに「自分自身に感謝することの大事さ」を書きたかったということがあります。
タグ:セルフ23


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posted by noffy at 22:27 | ペアである自分