2011年01月28日

ペアである自分(資料編) スウェーデンボルグ「宇宙間の諸地球」


(※)これをこのシリーズの資料としたのは、260年前のこの人物(スウェーデンボルグ)は、宇宙には無限に拡がる「地球と人間がいる」としているだけでなく、それらの人たち(霊)と実際に接触しており、「無限の宇宙を自分の中に把握している」ということについて、「ペアである自分」というテーマの理解の支持になります。
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一年半くらい前に古本屋で見つけた本で、イマヌエル・スエデンボルグ(本に書かれてあるまま)という人の「宇宙間の諸地球」という本を買ったことがあります。立ち読みをしたら、「誰だか知らんが、頭のイッた本だこと」と思いながら、実に面白く、そのまま買いました。初版は昭和33年と書かれてあります。

後でネットでこの人が、「スウェーデンボルグ」という名前でそれなりに霊界関係かなんかで有名なことを知りましたが( Wikipedia では「エマヌエル・スヴェーデンボリ」という表記)、それは、とりあえず私にはどうでもいいことでした。そもそも私は人の「全体的な業績」にはあまり興味がありません。自分が好きになる動機が必要で、「その人が好きな文章を書いた」とか「好きなことをした」以外にその人を好きになる理由がない。

そういう意味で、このスエデンボルグという人はこの「宇宙間の諸地球」という本の中で「好きなことを書いてくれた人」ということになります。そのあたりは、フレッド・ホイル博士と同じです。

この「宇宙間の諸地球」が書かれたのは、 1758年。
今から約 250年前です。

彼が書いた宇宙像(全宇宙に見られる恒星システム)はそれから250年経った今では普通の宇宙像となっています。まあ、それでもなお、この地球の人々は「エイリアンがどうのこうの」と言っていて、まだ「地球だけの人類」を信じている人たちがいるのも現状ですが、まあ、そんなことはともかく、彼の文章にはその後、パンスペルミア説を知ることになった私の(私がパンスペルミア説を知ったのは数ヶ月前のこと)、新たな感動にも結びつきます。スウェーデンボルグはこの本の冒頭で何度も、

「宇宙には無数の地球があり、そのすべてに人間がいる」

と言っています。
この考えは今の私の考えとほぼ同じです。
(その宇宙の存在が人間個々の中にもあるというのは別の視点になりますが)

250年前の人が持った感慨と感動を大体同じに持てるというのは幸せのようでもあり、また、あんまり世の中が変わっていない現れでもあるのかもしれません。

今回は、その「宇宙間の諸地球」の冒頭部分の抜粋です。
ただ、一番最初は、当時の出版物の慣例なのか、キリスト教とその神への宣誓的な文言から始まりますので、割愛します。また、旧仮名づかいは改めています。

本文中ではスウェーデンボルグは神を「 Divine 」と表記しているようです。
これはキリスト教の神という意味ではないように思います。

(ここから)




宇宙間の諸地球
イマヌエル・スエデンボルグ 1758年

(序章のセクション2から5まで)

 多くの地球があって、その上に人間がおり、霊や天使たちはその人間から来ていることは、他生ではよく知られている。なぜなら、他の地球の霊たちと語って、そのことにより、世界が多く在ることを確信し、また、人類は一つの地球のみでなく、無数の地球から来ていることを知り、さらに彼らの資質、生活方法、神礼拝のいかようなものであるかを知ろうと、心理から愛へ願い、ひいては、それを用への愛から願っている者にはすべて、その願いがかなえられるからである。

 私は私たちの地球の霊と共に、この主題について時々語ったのであるが、理解の鋭い物はすべて、その知っている多くの事柄から、多くの地球が在って、そこには人間があると結論することができようと言われたのである。なぜなら、その或るものは、大きさではこの地球にまさっている幾多の遊星のような、かくも大きな塊は、空ろな塊ではなく、また、単に太陽の周囲を廻転して、その乏しい光を一つ地球のためにのみ輝かせるために創造されたものでなく、そのユースはそれよりもはるかにすぐれたものであるに違いないということを、理性から結論づけられることができるからである。

 神( the Divine )は、人類を存在させ、そこから天界を存在させようという、ただそれだけの目的から、宇宙を創造されたことを、人各々信じなくてはならないが、そのように信じる者はまた、地球のあるところ、そこに人間もいることを、必然的に信じざるを得ないのである。この太陽系の領域内の、私たちの肉眼に見える遊星は地球であることは、以下のことから明らかに知ることができよう。

 すなわち、その遊星は太陽の光を反射しているゆえ、地的な物質の天体であり、望遠鏡でこれを見ると、その天体自身の焔できらめいている星としては現れておらず、暗い部分から種々に変化している地球として現れているのである。このことは、さらに以下のことからも明らかになるであろう。

 すなわち、それらは、我々の地球と同じように、黄道帯を通って、太陽の周囲を運行し、そこからその地球の年や、春、夏、秋、冬のような一年の季節が生まれ、また、それらは我々の地球と同じように、その地球自身の地軸の周りを廻転し、そこからその日が生まれ、また、朝、昼、夕、夜のような一日の時が生まれているのである。

 さらにその中のあるものには衛星と呼ばれる月があり、その月は、それらの地球の球体の周りを、ちょうど月が我々の地球の周りを廻転するように、時を定めて廻転しているのである。さらに、土星にはまた大きな光帯がある。なぜなら、それは太陽から非常に隔たっていて、その光帯はその地球に反射光線ではあるが、多くの光を送っているからである。

 これらのものを知り、また、これらのものを理性から考える者は、これらはみな空ろな天体であるということができようか。

 さらに、私は霊たちと語ったとき、以下のように言った。人間は、宇宙には地球は一つ以上あることを次のことから信じることができよう。すなわち、星空は無限に拡がっていて、その中の星の数も無限であり、その星の各々は、その所で、またはその世界で、一つの太陽であり、我々の太陽のように、色々な大きさを持っているのである。正しく考察する者はすべて以下のように結論する。

 すなわち、このように無限の拡がりをもった全体は必ずや、創造の究極である一つの目的に到達する手段でなくてはならない。その目的は、神が天使と人間とともに住みたもうことのできる天界である。なぜなら、目に見える宇宙は、または無数の太陽である、かくも無数の星できらめいている天は、地球の存在と、その地球上の人間の存在に対する一つの手段にすぎず、その人間から天界が形作られることができるからである。

 これらの事例から、合理的な人間は必然的に以下のように考えざるをえない。すなわち、このように偉大な目的のために用いられているところの、このように無限の拡がりをもった一つの手段は、一種族の人間のためにのみ、また、一つの地球のみから来た一種族の人間から発している天界のためにのみ構成されたものではない。

 数千の、いや、数万の地球もそのすべてに人が満ちていても、これを小さな、ほとんど物の数ともされない無限にています神には、この地球は何ものでありえようか、と。






(ここまで)


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posted by noffy at 22:24 | ペアである自分