
・「ペアである自分」記事
・ペアである自分(1)
・ペアである自分(2) 宇宙の場所
・ペアである自分(3) 人間の「見る」という行為
・ペアである自分(4)
ここ2週間ほどは以前も増して、なんだかあっという間に時間が過ぎて、「あああ」とか言っている間に1日が終わるんです。起きて、2つほどの短い用事を終えたらもう夕方。最近のこの流れは多少キツく感じてきました・・・。
そんなわけで、昨日の夜中、ほとんど無意識で途中まで書いていた「ペアである自分」の3です。
この「見る」という問題を最初に置いておかないと前に進めない感じがするのです。
前回のこのテーマの記事、「ペアである自分(2) 宇宙の場所」というところで、メキシコに住む目を持たない魚が松果体で光を感じていることに中途半端にふれましたが、「どうして、そのことにふれたのか」ということが曖昧なままです。
しかし、このことは「ペアである自分」と「私たちが見ている宇宙」などと関係する大切なことのような気もいたしますので、補足記事として、なるべく短めに書いておきます。わかりにくいかもしれないですが、どうもこれ以上うまく書けなそうです。
「見る」という行為
最初に結論的なことを箇条書きしておきますと、松果体にこだわるのは、私は「見る」という行為に関係する、これらのようなこと、すなわち、
・現実
・睡眠中の夢
・覚醒中の夢
・予言などで語られるビジョン
・原因を問わない幻覚
これらは全部同じものだと最近思っています。
多分「同じ場所にあるもの」を見ています。
場所の具体的なところはわかりませんが、その同じところを見ています。
そう思ったのはごく最近です。
数時間前かもしれません。
そして、これらを全部見ているのは光の受容体を持つ「目」からの視覚ではなく、松果体中心の他のシステムだと考えています。
上の、
・現実
・睡眠中の夢
・覚醒中の夢
・予言などで語られるビジョン
・原因を問わない幻覚
は、すべて具体的な色彩風景、つまり現実と同じ様相をしています。
私は「現実」と「睡眠中の夢」しか見たことはないですが、睡眠中の夢は見ている時には、誰もがそれを夢と気づかないほど「現実的」なことは、夢を見るすべての方が納得することなのではないでしょうか。起きている時に、たとえば今、何か頭で想像してみていただきたいのですが、私を含めた普通の人々にはいくら頑張っても、起きている時に「睡眠中の夢のようなリアルな夢想」をすることはできないはずです。
なにしろ、ほとんどの場合、睡眠中の夢はほとんど現実の色彩です。
まず、現実の世界で「見る」とはどういうことかということを簡単に振り返ってみます。
「目」で現実を見ているという私たちの日常です。
目の構造の勉強を復習すると、少なくとも実は「目は何も見ていないかもしれない」という懸念が生じることがわかります。目の構造は、ウィキペディアからの一行で足りると思います。
> 目は、光を受容する感覚器である。眼で受容された光情報をもとに、視覚が生じる。
この「目」が受容するという「光情報」とは何か。
たとえば、以前から多くの人々が疑問におもっていて、なかなか適切に説明がなされることのない、「赤はどうして赤に見えるのか」ということなどは興味深い事実かもしれません。
人力検索「はてな」の2005年07月の質問に以下のような質問があります。
赤い色が何故「赤く」見えるのか教えてください。赤色が波長700nmに対応していることは知っています。そういうことではなくて、私が知りたいのは、700nmの光が、何故、青や緑ではなく、この「赤」という色に見えるのかということです。
この質問には「回答数 67」という多数の回答がつきますが、この数の回答でも、質問者は結局、納得せずにこの項目は終わります。
もっともわかりやすかった2つの答えはこれだと思います。
Q: この問題は、いろんな哲学者や科学者達が論じ続けて結論の出てない問題だと思います。答えが分からないだけでなく、どういう種類のことを言えば「答え」になるのか、それさえ分からない人が多いのではないかと思います。
そんな難しい(どう答えてよいのかも分からない)問題に「わかりやすく」答えるのは、ほぼ不可能であるように感じます。
や
Q: ・あなたが、意識レベルで「赤」をどのように感じているか、おそらく私には分からない。説明もできない。
・自分が波長700nmから受ける脳の活性が、なぜ自分の意識レベルの「赤」になっているか未だ未解決。
などです。
つまり、いまだに「人類(あるいは生命)が色を識別して、その色を感じているシステム的な理由」はわかっていないということのようです。

▲ 日立ホームページより、可視光線の波長と見える色。
では、目は何を受容しているか。
それは光です。
これは理論的なことを考えなくともわかることで、完全に真っ暗な状態では誰も何も見えません。
そして、完全に光が当たったところでも実は何も見えません。これは、撮影スタジオなどでの強力なフラッシュを想像していただければいいですが、明るすぎても何も見えなくなるのことも事実です。
つまり、人間の目は、光の濃淡だけで世界を判断している可能性がある。
ところが上記のように、光の色をどうして認識できているのかその正体はわかっていない。
人間にとっては、色が世界を作っています。
デザインや、あるいは HTML などをご存じの方なら、色のナンバーに果てしない数のカラーコードが存在していることをご存じかと思います。人間は日常で、あれのさらに細分化した「色の差」で物を識別しているはずです。

▲ HTMLのカラーコード表の一部。インターネットの世界などでは、この色の中に書かれてある文字列で色を表すことができる。他に、印刷の世界で使われる CMYK などいろいろあります。
光と色で物の存在を判断している人間が、その色の判断要因(システム)がわからないという事実。
なので、「人間は本当は何も見えていないのではないのか」と言われた場合、人類は多分、反論できない感じがします。体内システムからは説明できないからです。
あるいは、
「本当にそこに何か存在しているのかどうか目でわかるのか?」(本当はこの世には何も存在していないのかもしれない)
という質問にも同様に答えられない。
この「実は何も存在などしていないのではないか」という懸念は、どうしても台頭します。
これなどは考えたことのある方も多いのではないでしょうか。
人間の目の役割は多分、「見る器官」としてより、「光を受ける器官」としての存在部分が大きいのではないかと思われます。
これはもちろん、「目」を軽視しているわけではありません。
「光を受ける器官」としての存在部分は大変に重要だと思います。
植物には目がありませんが、植物(特に被子植物)では、光を受けて光合成をすることが植物自身にとっても大切な生命維持システムとなっています。なので、「光を受容する」目という存在は確かに大切なものにも思います。
ただ、その役割を多分、私たちはまだ把握していないか、あるいは、何かを勘違いしているのかもしれません。
メラトニンを支配する松果体
脳にある松果体は、メラトニンというホルモンを分泌します。
睡眠ホルモン・メラトニンとはより。
メラトニンは1958年に初めて発見され、眠りを誘うホルモンとしてよく知られています。このメラトニンを分泌するのは脳の松果体と呼ばれている部分です。松果体は網膜が受ける光の量というデータを受け取り、その情報をもとにメラトニンの分泌量を決定します。
メラトニンの存在はずいぶん昔から知っていました。
なんで、メラトニンなんて、普通に考えればどうでもいいホルモンのことを知っているかというと、今ではあまり気になることはないですが、私は二十代の初めから数十年に渡りパニック障害で悩んでいました。パニック障害の説明はしませんが、まあ、状態の悪い時は苦しいものです。
なので、「リラックスする要素」のさまざまな情報を調べたりし続けたわけです。「森田療法なんてのもありましたし、その中にはメラトニンの情報もありました。メラトニンは「睡眠に関与」するので、睡眠障害の人も多かったパニック障害や、不安神経症の人には興味のあるものだったんです。
そのメラトニンのリラックス要素はともかく、「ノンレム睡眠とレム睡眠のリズムをつかさどる」のもメラトニンだと見なされています。その根拠はあまりハッキリしないにしても、「夢は一般的にレム睡眠の時だけに見る」というのはご存じの方も多いかと思われます。
レム睡眠とは、要するに「あまり深く眠っていない時で、覚醒に近い時」です。

・こちらにあった上のグラフがわかりやすいと思いますが、線の上の「レム睡眠」という青く塗られた時(だけ)人は夢をみます。
基本的には人間は眠っていても、覚醒に近い状態の時しか夢は見られません(私個人としては、睡眠から起きる間の瞬間の、ほんの一瞬にその日の夢のすべてを見ていると思っています)。
退化した器官と言われ続けた脾臓と虫垂と松果体にかかっている(かもしれない)人類の進化
「見えていない(かもしれない)目」と、この夢の問題は、一番上に書いたリストのうちの、
・現実
と
・睡眠中の夢
の2つが実は近い位置にあることを感じさせます。
脳にある松果体という器官は、レム睡眠を作り出し、本人に「夢を見させて」いる一方で、たとえば、先日のメキシコでの魚の話のように、実際に「松果体で見ている生き物」がたくさんいるという事実。
かつて、松果体は人間の「退化した組織ではないか」と言われてきました。
退化したと言われていた組織。
たとえば、関係ないですが「脾臓」という器官があります。
これも、大した役割をしていないと思われてきたのですが、脾臓は心臓のサポートするという重要な生命維持の役割をしていいることがわかっています(“痕跡器官”とされた脾臓の役割解明 (ナショナルジオグラフィック 2009.08.03))。この記事には、盲腸で知られる虫垂にも重大な役割があることがわかったということが書かれています。
ただ、松果体が重要な器官であるにしても、現在の人間はその機能を十分に使っているとは言えない気はしますが、私はこのあたりに「今後の人類の最大の進化」の可能性を考えるのですが、まあ、これは想像の話ですので、別にいいです。
アカシック・レコードがある場所は自分の中
さて、上のリストの中で、残る3つ、
・覚醒中の夢
・予言などで語られるビジョン
・原因を問わない幻覚
こちらはそれぞれ体験者でない私に簡単に説明できるものではないですが、そのうち、流れの中でふれられるかもしれません。
たとえば、「アカシック・レコード」というような概念があります。私はそれがどんなものなのか自分自身が接触したことがないので、どんなものかは実感が湧かないにしても、それがもしあるのだとすると、仮に、どこにあるのかはわからなくとも、「宇宙のどこかにはある」としていいように思います。
となると、ここに、先日(このシリーズの2)で書いた、
「宇宙は人間の内部にある」
を当てはめると、アカシックレコードは本来、人類全員が持っている普遍的なもので、特別なものではなく、これは一種の「元型的な産物」ということも言える可能性があります。
予言も幻覚も「見る」という行為です。
しかし、「目」で見ているのではないことは明らかで、だとすると、上の一連の流れで、松果体や、あるいはその周辺の何かに行き当たる感じがします。
もちろん、アカシックレコードの存在自体も確定しているわけではないので断定するつもりはありませんのが、この一連の流れの中で、私の考えとして、ここで一番上のリストにある、
・現実・睡眠中の夢・覚醒中の夢・予言などで語られるビジョン・原因を問わない幻覚
がすべて同じ場所にあるものを見ているとという結論に至ります。
私はもともと、何かを「見える人と見えない人がいる」という概念が理解できない人でした。以前書きましたが、「物理の法則は絶対」だと私は思っています。すると、「ある人には見えて、ある人には見えない」というものがどうして存在するのか。
それはとんでもなく私にとって闇でした。
オカルトベースでは、たとえば幽霊なんかもそうです。
「幽霊を見た」という人が全部ウソをついているとか、全部見間違いだというのは、これまでの幽霊目撃の歴史の数を統計的に考えると、むしろ「幽霊などウソだ」というほうがオカルトで、確かに見ている人は見ているはずです。
しかし、「隣にいる人には見えない」。
なのに、「写真に写ったりする」。
さあどうする、さあどうする。
・・・と今までは思っていましたが、前者が松果体の働きの差、後者は物理的な現象と考えると、それほど難しく考えることもなかったのかもしれないと思います。人には運動能力や計算能力に差があるように、松果体の働きにも差があるのかもしれません。
(運動能力がトレーニングで向上するのと同じように、「見る」能力の向上へのトレーニングもあるのかもしれないですが、正確な方法がわからないでするのは危険なように思います。)
私は幸い、松果体は完全に退化したようで、何も見えません。
まあ、幽霊とか今でも恐いんで(笑)それはそれでよかったです。
「なるべく短く」と最初に書いたような気がしますが、むしろ今まで以上に長くなりまして、お詫び申し上げます。
内容的にもなんだか、むしろますますわからなくなってきた思うんですが、とりあえず、「書きたい要素が出尽くすまで」脈絡がわからない状態は続いてしまうかもしれません。すみません。
最後に、参考とはならないかもしれないですが、まだ上のような考えを持ていなかった、1年くらい前に書いたブログ記事からの抜粋です。その頃は、現実も夢もその他もバラバラだと考えていました。そして、若い時のパニック障害の発作の時に「視覚と左脳の判断のリンクが切れた」時の体験を書いています。
それでこの今回の(3)を一旦終わります。
(ここから抜粋)
左脳の未来
クレアなひととき 2010年03月10日(抜粋)
独立するビジュアル
二十代の始めの頃にパニック障害になったことは何度か書いたことがありますが、パニック障害には、いわゆる医学書や医学サイトに書いてあるような教科書的な症状はもちろんありますが、人によって様々という面はあって、共通項としての「恐怖」や「パニック」というようなことはあるかと思いますが、多彩だと思います。嬉しくはないけど「個性」ですね。
で、もっともひどかった、23歳くらいの時ですが、パニックになりそうになる時に、「頭にあるビジュアルが何であるか判断できない」という状態に陥ることがありました。
これは説明が難しいですが、
・夢の風景
・現実の風景
・映画などで見た風景
・過去に実際に見た風景
・記憶の中の風景
・想像の風景(現実にはない風景)
などのいくつもの形態と時間軸のビジュアルが人にはあると思っていただければいいと思うのですが、「この判断の同時性が切れる」わけです。
記憶の中には常にいろんな現実や想像のビジュアルがあるのと平行して、目から視覚としてもビジュアルは入っていきます。たとえば、今、あなたがパソコンでこれを読んでいるとすると、そのパソコンが見えたり、横に置いてある花やテレビが見えるでしょうが、実はそれはずーっと「視覚の片隅」に入っているはずですが、ふだんは気にしないで「見ないことになっている」わけです。
意識して、「横にテレビがある」と認識したときに、それを「見た」ということになると思います。
このように、視覚には実はあらゆるビジュアルが常に入り続けているわけで、本来なら、全部認識しても不思議ではないけれど、いろんなことを同時に集中しては人間は何もできなくなるわけで、実際には必要なものだけを見るということになっています。
同様に頭の中にも常にビジュアルが存在します。記憶や経験のビジュアルは視覚と平行して、常に頭の中にあるはずです。
たとえば、小説を読みながら、「その架空の光景を想像したり」する。
それを想像しながら、過去の現実の記憶の光景が浮かんできたりもする。
その間にも視覚からは現実のビジュアルが入ってきている。
というように、常に圧倒的な量のビジュアルが視覚から、あるいは記憶の中の情報として存在しているわけですが、これを的確に処理できているのは、多くは左脳(あるいは左脳的な役割)で判断して、整理して、必要なものを取り出す。
だから、人は冷静に物を見て、想像できるみたいです。
「みたいです」と書きましたが、この左脳のサポートが切れると、どうなるかというと、「ビジュアルが独立して映像として流れていく」のです。また、「視覚に入ったビジュアルがすべて同時に情報として入ってくる」のです。
うまく説明できないのですが、左脳的に大量のビジュアルの判断を思考で追いつこうとするのですが、頭にあるイメージに説明をつけることができないのです。
これは恐ろしいですよ。
全部、情報として入ってくるのです。
部屋の壁も貼ってあるポスターもお酒の瓶も、視覚の中にある情報が処理されずに平等に全部展開される。しかも、そこに想像上のビジュアルも展開されるわけです。
こわいのは、「頭に今ある映像に何の説明もつかないので、その映像の判断ができない。あるいは遅れる」のです。冷静には「見えているものが今見ている現実である」こと程度はわかるのですが、それへの判断が少し遅れるわけです。
ビジュアルの情報量というのはものすごく多すぎて追いつけない。多分、一瞬で何百何千というビジュアルが人間の頭と視覚上では展開されています。それを的確に処理している「脳」というのはスゴイものですが、その時にはそんなふうに感心する余裕もなく、アセるだけです。
特に思うのが、「こりゃ頭がイッちまったかな」というやつですね。
要するに、自分は発狂してしまったのではないか、ということに対する恐怖です。
しかし、一方で、「自分は狂ったのではないか」と冷静に自分を判断している理性的な自分はいるわけです。そして、そのことを人にも伝達できる。必ずしも、そういうときにひとりのわけでもなかったですから、一応、場はつくろわないといけない。つまり、左脳は機能しているのです。ただ「脳の中の連携が切れた」感じなのです。
ちなみに、面倒くさいんで、当時、周囲の人たちにもパニック障害のことはカミングアウトしていて、「ちょっと具合悪いからタイム」というようにやっていました。このあたりは気楽にやらないと生きていけなかったですし(笑)。
まあ、少し時間が経てばよくなる。あるいは、お酒を飲んでリラックスすれば良くなりました。お酒は、当時の私には変な安定剤よりも効いたものでした。なので、当時は大事な用事の時になればなるほど、朝から酒を飲んでから行ったりしていました。
それはともかく、そんなことが続いた期間は長くはなかったのですが、今にして思うと、ビジュアルを恐怖なしに判断できていることは幸せなことなのだなあと思います。
(抜粋ここまで)
タグ:夢