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2010年07月07日

植物の人類支配の目的とか、メキシコの眼のない魚が「松果体で見ている」こと


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昼間の多くの時間を植物をいじくりまわして過ごすようになって1カ月くらいになるのでしょうかね。

没頭状態はひどくなっていますが、まあ、悪いことばかりでもなく、植物を置くスペースを自分の部屋とベランダから「住居全体」に推し進めている作業の中、必然的に模様替えや大規模な整理などをしていて、奥様からも「どんどん部屋が綺麗になるから、まあいいか」というような受け取られ方になってはいます。

最近、東京はものすごく暑いし、私の苦手な湿気もひどいのですが、多少涼しい時には、地元から前後一駅程度くらいを散歩して、他の家々の植物を見て歩いたりしています。

最近まで全然気づかなかったですが、植物というのは街のあらゆる部分に浸食しており、食べ物屋や美容院などの自営業系の店舗の店頭にはほぼ確実に植物が置いてあるのですが、それが「何となくインテリア的に」というあたりで止まっているものから、「次第に植物に支配されていく店主」という状況になってしまっているお店も多く見受けられます。

近所におでん屋と日本そば屋が並んでいるところがあるのですが、そば屋のほうは入り口周辺をマツみたいなものとか日本的な植物でまとめてあって理解できるのですが、おでん屋のほうは日本的な植物もあるにはあるのですが、その周囲にソテツやハイビスカスやシダ類、あるいはドラセナやサンスベリアというような南国系の植物がたくさん生い茂り、もはや南米のジャングル化しており、おでん屋であることは看板で辛うじてわかるくらいになっています。

うちの向かいのほうにある、旦那のほうは80歳を越えているご老人夫婦の一軒家も、家の前には鉢とプランターが100個以上並んでいるのですが、そこにもほとんど系統だった秩序はなく、盆栽の世界と南国パラダイスが同居した空間を作り出しています。今日、そこのおじいさんが買い物袋をぶら下げて家の前に立っており、その植物たちを見回した後に、「ふー」と大きくため息をついていました。

「こんなことになってしまった老後のオレ」

というようなことを思っていたのかもしれません。

麻薬などのドラッグもそうかもしれないですが、中毒的な様々な事象というのは徐々に生活の中に浸透してきて、気づいた時にはすでに取り返しのつかないことになっていることも多いです。


植物の終局は最後の終局

以前、もう1年以上前ですが、植物の終局とかいうタイトルの記事を書いたことがありますが、細かい内容はともかく、タイトルだけ見ればお笑い種で、「植物種」という大きな区切りで考えれば、それは地球が存亡している最後まで生き残るもののわけで、終局は「他の生き物のほうに順番に訪れる」ことには疑いの余地がないことだと思います。

微生物的な「藻」のたぐいまで含めれば、むしろ「植物で始まり、最後も植物で終わる」と考えるのが妥当な感じがします。

最近は勉強もあんまりしていないんで、植物に関しても文字としての学習は全然していないのですが、歴史上何度かあった生き物の大量絶滅では、植物自体もかなり絶滅しているはずで、つまり、「強い植物でも生きられなかった環境」は地球にはあったのだと思います(もちろん、環境の激変だけが生物の絶滅に関係するわけではないと今は思っています。

多分、生き物は「自己壊滅」するのだと思います
)。そして、それらを乗り越えて、2億年くらい前には、現在、観葉植物で見られるような植物の一部は、ほとんど今の形と変わらない状態で地球に登場していたようです。

そこでいろいろと気づくこともあります。

たとえば、植物の中でも、日本での観葉植物のジャンルに入れられる植物たちには、次のような特性を持つものが多いです。直射日光が当たらない室内に置くことが多いためと、日本には寒い冬の季節があるためですが、

・太陽光があまり必要ない
・寒さに強い


という点です、。

いろいろな植物があるので、これはひとつの例ですが、こうした特性は、たとえば、「熱帯の植物」にも多々見られます。いかにも熱帯の植物といったようなヤシのようなものなどは、イメージとしては暑い気候の下、砂浜でギンギンの直射日光に照らされて生きているように見えますが、種類によっては、「それも大丈夫だけど、氷点下もOK」というものもたくさんいるのです。

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・地獄の黙示録に出て来そうな熱帯雨林風景が似合うヤシですが、このワシントンヤシというのは氷点下の気温も全然OKです。


本来、いわゆる進化論でいう適所適材から考えると、これらは「その地では不要な能力」であり、1年を通じて絶対に気温が10度以下になることがないような東南アジアの熱帯にも、「氷点下の気温にも耐える」というような植物が自生しています。

この「不要な能力」というのは、まあ、現時点では不要なわけですが、しかし、この世の中の生き物すべてに「絶対的に無駄であることは存在しないはず」で、多分、この植物たちの「35度の高温でも、氷点下10度の極寒でも生きられる南国の植物」にはその理由があるのだと思います。

そして、それらの極端な環境に強い植物の多くはやはり、地球に登場してからの歴史が長いものが多いように感じます。植物以外でも、昆虫や海の生き物では、5億年くらい姿を変えていないようなものはたくさんあるわけで、それらはやはり「強い」のだとは思います。

まあ、ミツバチなんかも少なくとも1億年前には今と同じ姿でいたわけですけど、今、絶滅に向かっているっぼい感じもあって、今の地球の状態だと1億年程度の生存グループは危ういのかもしれません。そういう意味では、2億年程度の生存グループである上記の植物たちも正念場ではあるのかもしれません。


自分たちの遺伝子の拡散のために人類を利用しているように見える「動けない植物」

私はパンスペルミア論を支持しているのですが、最近の思いとして、「この世の生き物の種類は想像を絶する」という考えに傾きつつあります。いわゆる何千万種類とか何百億種類という話ではなく、まさに「想像を絶する」という話で、無数という言い方でいいのだと思っています。

ところで、現代の人間の生活では今の私もそうですが、植物は存在自体が見事に資本主義に取り込まれていて、たとえば植物は都市部では基本的には「買ったり、売ったり」するものです。

花屋なんかがあり、輸入や輸出や栽培といったビジネスにもなっています。

これらは食べるためのものではないです。「どうしてこんなことになったのか」ということを考えたときに、植物は基本的に動けないという事実に思い当たります。つまり、自分で種や遺伝子を拡散したくても自分の行動能力では限度があるということです。

そして、「だったら動くものを利用して世界に自分たちを拡大させればいい」と、植物が人間を利用して自己の増殖を拡大させてきたような気がいたします。

船を開発し、飛行機を開発し、人間は地球の非常に多くのところを行き来して、そして植物や動物もそこを移動できるようになった。植物自身の移動能力では難しい距離を人間が運んでくれる。

やり方はわからないですが、植物は人間を精神的に支配できる特性を持っているのだと思います。人が植物を見ることに金銭的価値を見いだすようになったのは、それが理由なのでしょう。お金が絡んだほうが現在の人間は真剣になりますから。

「こいつらは金が絡めばオレらのために働く」と植物は看破しているのかもしれません。

そういえば、映画の「宇宙戦争」でも地球を襲ったエイリアンは自分の星の赤い植物を植えて、人間の体液を肥料にして育てていましたが、架空とはいえ、植物の「他者による遺伝子の拡散」の実例のように思います。


さて、一応ここからが今日の本文となるのでしょうか。

今日もまた何だか翻訳みたいなものなのですが、「松果体」に関する研究発表のニュースです。ニュースブログに載せるには「これは大ニュースだ」と思えない方もいらっしゃると思いますし、こちらに載せることにしました。また、記事自体は数日前のものなのですが、記事の内容の研究発表が2008年のものであることもあります。

記事には代表研究者の名前は記載されていないですが、 論文の原文によると、研究チームは米国メリーランド大学のヨシザワ・マサト氏(漢字がわからないです)と、ウィリアム・ジェフリー氏という二名がメインのようです。

彼らは、メキシコの洞窟に住む目の見えない魚が「眼がないのに光に反応する」ことを発表し、そして、「光の受容体がないはずのこの魚がどうして光を感知しているのか」ということに関して実験を繰り返し、「脳の松果体が直接光を感じとっている」と結論付けたのです。

松果体というのは二つの大脳の間あたりに位置する脳のの中にある機関ですが、ホルモン、メラトニンを分泌すること以外の役割はいまだに不明ながら、古来よりオカルト系の話の中核をなす器官でもあったようです。

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・二つの大脳の中間あたりにある器官です。


私はよく知らないのですが、古くはデカルト、そして、ヨガやニューエイジ思想までによく出てくるものだそう。


デカルトはこの世界には物質と精神という根本的に異なる二つの実体があるとし、その両者が松果体を通じて相互作用するとした。デカルトは松果体の研究に時間を費やし、そこを「魂のありか」と呼んだ。 松果体が人間の脳の中で左右に分かれていない唯一の器官であると信じていたためである。

この観察は正確ではない。顕微鏡下では、松果体が2つの大脳半球に分かれているのが観察できる。松果体に関するほかの理論としては、流体を放出するバルブとして働いているというものがあった。手を頭に当てて思索を行うと、そのバルブを開くことができると考えられていた。


とWebには書かれてあります。

今回、メキシコの魚が「松果体で直接光を見ている」ということがわかったというのは、そういう点では意味のあることなのかもしれません。前回の記事で、「お茶目な日本人科学者たちが何かを」などと書きましたが、これも日本人中心の研究のようです。宇宙からのアミノ酸、ビッグバンの否定と、近年の日本人の「謙虚な大発見」は続いていますが、今回は松果体の働きの発見でした。

ちなみに、ソースは Epoch Times 。つまり、英語版の大紀元です。大紀元の英語版の記事は面白いものが多いです。

なお、実験自体は、魚の松果体や両眼を切除したりしていて、魚には少し気の毒です。

(ここから)




Blind Fish Sees With the Pineal Gland
The Epoch Times 2010.07.03

目の見えない魚は松果体でものを見ていた


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メキシコの淡水に住む熱帯淡水魚には2つの種に属するものがいる。ひとつは、陸地の川に住む目のある種類。もうひとつは、洞窟の水の中に住んでいるもので、こちらには目がない。

この目のないメキシコの淡水魚は眼原基(目の前段階のもの)自体は、胚として成長するが、幼魚の時に皮膚で覆われ退化してしまい、目にはならない。この魚は光を感じ取ることはできないと思われてきたが、メリーランド大学の研究者が2008年に「ジャーナル・オブ・エクスペリメンタル・バイオロジー」に発表した研究論文によれば、「別の方法で見ている」ことが明らかとなった。

この魚は、目は機能していないが、脳の中央近くにある松ぼっくりの形をした内分泌腺の「松果体」で光を検出していることが実験からわかった。松果体は皮膚の奥深くにある器官であるにも関わらず、光を感知できているという。この松果体は、いくつかの脊椎動物では「第3の目」としての器官として知られている。

メキシコのパチョン地区の洞窟魚とティナジャ地区の洞窟魚(それぞれ眼のない魚)、そして陸地の川に住む(眼のある)魚のそれぞれの集団が実験に使用された。実験は、陸地の川の魚と洞窟の両方の幼魚に、プラスチックで仕切った空間の中で、3分間ずつ光を当てる。その後、光を遮って、水面に泳いで上ってくる魚の数を数えた。この影に対しての反応行動は、若い幼魚が、水面に浮かびながら物陰に隠れて捕食者から逃れるための行動だという。

受精後1.5日後には60から70パーセントの洞窟に住む魚たちが、この影への反応を見せた。陸地の川に住む魚では、約50パーセントがこの反応を見せた。この実験は7日間のあいだ、一日に一度繰り返し行われた。すると、ティナジャ地区の洞窟魚は陸地の川に住む魚よりも多く影に対しての反応を見せることがわかった。この結果は、光を感じる能力は眼のある陸地の川に住む魚と、眼のない洞窟魚の両方に存在していることを示している。

幼魚が何を頼りにして影を感じることができたののかを突き止めるために、研究者たちは、魚の松果体、片眼、あるいは両方の眼を取りのぞいて実験を続けた。両眼を取り除かれた陸地の川の魚と洞窟の魚は両方が従来と同様の行動を示したが、松果体が取り除かれた魚では、約10パーセントの魚しか影への反応行動をとらなかった。

研究者たちは、松果体が影への反応行動の重要な要素であり、また、松果体だけで光を検知できているのわけではなく、松果腺と運動系との神経連絡が存在すると結論づけた。




(ここまで)

論文の本稿は Shadow response in the blind cavefish Astyanax reveals conservation of a functional pineal eye
(盲目の洞窟魚アステュアナクスにおける影に対しての反応は、身体保護が機能上の松果眼でおこなわれていることを明らかにした)


というものです。

論文には、松果体や眼を取り除いた際の反応の写真なども掲載されています。私には見てもわからないですが、こういうものです。

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posted by noffy at 05:37 | 地球と宇宙の生命