
最近、植物を置くスペースを作るために自分のものをバシバシと捨てています。
奥様からは「もう植物はやめて」と、喧嘩や大酒飲み並みの扱いを受けつつある我が家の植物ですが、しかし、うちの子どもはなかかな興奮していて、「もっと花を! もっと緑を!」というような植物躁状態に陥りつつあるようです。
そのスペース作りのために先日も本をバシバシと捨てている時に、「神秘学カタログ」という分厚い本が箱の中から出てきました。
荒俣宏と鎌田東二という人の共著となっています。
「あーこれ、ずいぶん前に新刊で買って、ちょっと広げたら難しくて5分でやめて放置しといたやつだ」
奥付を見ると、「昭和62年9月1日発行」とありますので、放置歴は長く、23年ほど放置されていたようです。
当時は「オレってこんな本持ってたりするんだよね」という女の子へのアピールのためだけに買ったような本が本棚に並んでいましたが、これもそういう中のひとつだと思われます。「タイトルがいかにも難しそう」というのがポイントで、内容なんてどうでもいいのです。
しかし、今、目次を見てみると、興味を引く部分がないわけでもないのですね。
たとえば、この本の中の「異物としての生命 - 生命本体論のためのノート」というセクションの2つめの見だしのタイトルは、
「生物は生きているのではないかもしれないこと」
となっています。
「ふーむ・・・」と、タイトルだけで何となく満足したりします。
ちなみに、この「神秘学カタログ」は、著者たちご本人の文章もわりと難解ですが、引用元に関しての難解さは一種異様な世界で、たとえば、この章の冒頭のほうで引用されている、エルンスト・ヘッケルとかいう人の「生命の不可思議」という著作を後藤格次という人が訳したものから引用されていて、それはこんな感じになっています。
「吾人が有機的生活作用と比較し得べき凡ての無機的現象中、外見が相似て而も内部の相類するもの、火炎に若くはない。此の意味深長で重要な比較は、己に二千四百年以前、有能な希臓の自然哲学者の一人たるエフェソのヘラクレイストが為した処である。」
こんな調子でえんえんと引用されるのですが・・・・・荒俣先生・・・意味どころではなく、そもそも漢字も読めないです。
まあ、そうは言いつつも、飛ばし読みで、この「異物としての生命」を読んでいましたら、18世紀の終わり頃に活躍したフランスの博物学者のラマルクという人と、フランスの博物学者で解剖学者のキュヴィエという人のふたりに少し触れた後に、そこからオカルトまでに達していく生命エネルギーについての4つの段階が書かれてありました。
ちなみに、私はラマルクもキュヴィエもどちらもまったくといっていいほど知らなかったのですが、少し調べてみると、後の生物学などにかなりの功績を残した偉大な科学者のようです。
・ラマルク
・キュビエ
などにわかりやすく出ています。また、 Wikipedia の進化論のページにも頻繁にその名前が登場します。
このキュヴィエという人は、今回私は初めて知ったのですが、ダーウィンの進化論に対して強硬に反対意見を言い続けていた人だそうで、天変地異説というページにはこうあります。
天変地異説(Catastrophism)または激変説とは、地球や生物の歴史に関する初期の仮説の一つで、地層の形成や化石生物を天変地異的な現象で説明しようとするものである。ジョルジュ・キュヴィエによって唱えられ、斉一説や進化論に対する強い抵抗勢力であったが、19世紀には力を失った。
天変地異説と書かれている横にあるカッコの中の英語を見ると、カタストロフィズムと読めます。カタストロフ・セオリーという言葉は「破局理論」などとされていますが、それに従えば、このカタストロフィズム(カタストロフ+ ism)というのも「破局説」とも読める感じで実にかっこいい。しかし、その説自体はきわめて普通のことだったようです。上の天変地異説によると、
キュヴィエによると、天変地異によって大部分の生物は死滅し、それらが土砂の中に埋もれて見つかるのが化石である。また、彼は完全な絶滅を考えていたのではなく、一部は生き残ったと考えていた。これは、貝類などにいくつもの時代から共通に出現するものがあったためである。
地球の歴史上で何度も起きていた生物の大量絶滅のことなどを考えると、この18世紀後半の意見は今でもあまりにも「普通に正しい見解」のように私などには見えますが、この対立は結局、キリスト教的な問題の「創造論 vs 進化論」の土俵で論争されてしまったようで、結局、創造論を否定したダーウィンの進化論がサバイバルに勝って生き残り続けているというのが現状のようです。
ところで、私は、最近、ダーウィンの肖像や写真などを見て思うのですが、ダーウィン先生は自分のお顔を見ている時に、「人間は猿から進化したのかもしれない」と考えついたのかもなあと思っています。

・ダーウィン先生の写真

・ダーウィン先生の晩年の写真
さて、一方のキュヴィエさんのお顔ですが、この人の顔がなかなかいろいろと私に考えさせるものがあります。肖像画を見る限り、1970年代のパンクバンド「セックスピストルズ」のギタリスト、スティーヴ・ジョーンズ とキュヴィエさんはそっくりで、何となく「パンクの輪廻転生」という言葉さえ思い浮かびます。

▲ キュヴィエさんのお姿。

▲ セックスピストルズのスティーブ・ジョーンズの演奏風景。1976年前後。キュヴィエ先生(1769 - 1832年)と比べて、眉、目、鼻、口など、ほとんど生まれ変わりのレベルで似ている感じですね。約200年の間があるのに、髪型も同じ(笑)。
ただまあ、当時の肖像画は同じ人を描いていてもいろいろで(上のキュヴィエ像は Wikipedia にあるもの)、どれがご本人に近いものだったかは今ひとつわからないですが。
いずれにしても、このキュヴィエさんの研究はちゃんと調べてみたいもののひとつで、今日からは「キュヴィエ先生」として、心の師と仰ぎたいと思います。
生命のフェーズ
さて、生物の発祥とか進化なんてどうでもいいですが(おいおい!)、この「神秘学カタログ」には、ラマルクやキュヴィエらの生物理論などから始まり、オカルトに達するまでの生物の段階(本では「相=フェーズに区切る」と書かれています)を簡単に現したものが書かれていて、それは、
1 生命エネルギーは生物を活かす(運動させる)
2 生命エネルギーが実は意志の本体である
3 生命エネルギーは一種のメディアとなって、生命体と外部との「理性的」(あるいは言語的)以外のコミュニケーションを可能にする
4 生命エネルギーは霊界にまで達している
ということのよう。
1から4までどのような理論的支柱で展開していくのかは私には本を読んでもよく理解できません。それぞれのフェーズでの説明に出て来た人だけを挙げておきたいと思います。
1 → ラマルク、キュヴィエ
2 → 動物磁気説の提唱者メスメル
3 → メスメル、条件反射の理論のパブロフ
4 → ドイツの化学者カール・フォン・ライヘンバッハ、オルゴン理論のヴィルヘルム・ライヒ
「4」の人たちは誰だかわからないですので、これから調べてみます。
この「4 生命エネルギーは霊界にまで達している」関係は、 UFO や1936年に発見されたというビオン(bion)だとかいう微粒子の話に発展していくのですが、一気に理解できる話ではないですね。
このビオンというのは、
青色の微粒子で、生命体と物質の境目を形成するエネルギー的物質とみなされた。なぜ生命と物質のはざまにある微粒子かというと、これは明白な自由運動を行なうのだ。
というもののようです。
このビオンが生じるエネルギーが「オルゴン」というものだそう。
このあたりはよくわからないし、少なくとも今はわからないままでOKであります。
植物に見える霊的存在
さて、話はずいぶん飛びましたが、結局、今回書きたかったのは、この荒俣宏先生の「異物としての生命 - 生命本体論のためのノート」という論文の中で、もっとも良かった論文の最後の文章を紹介したかったからです。そのフレーズは、ヴィルヘルム・ライヒという人の言葉で、たった一行ですが、
生命は不可量物質であるから
というものです。
「多分そうなんだよな」
と最近は思います。
生き物の正体ってのは計れないんだよな、きっと。
現時点では植物ラブとはいえ、一時、微生物に心を奪われ、「すべての生命は物質として計れるはずだ」というような考えに陥りそうになっていたわけで、そこを、ねるさんの書き込みの「シュナイダーは微生物を悪と見なしていた」ということなどを知って、ハッ Σ(゚Д゚) としたわけです。
「オレは微生物に支配されかかっていた」と。
まあ・・・確かにファージとかはカッコイイですけれどね・・・。
そんなわけで、こういう23年間埋もれていた本に目を通すキッカケを与えてくれたのも、キュヴィエ先生を知ることができたのも、植物のおかげでした。「植物のためのスペースをもっと作ろう」などと思わなければ、この神秘学カタログはさらに何十年も埋もれたままになっていたはずです。
ありがとう、植物。
・・・とはいえ、植物も生き物。「生命の自己増殖」とか「生命の爆発的増加」などの概念を考えると、単純に「植物っていいっすね」だけとは言えない部分は確かにあります。
たとえば、藻なんかも植物なんでしょうけれど、それら微生物の様相を呈している植物の異常発生や、あるいは身近な例だとたまーに見る「ツタに完全に覆われてしまって、近所の子どもたちから魔女の家とか呼ばれてしまっている家」など、植物の自己増殖ぶりもかなりのものがあります。

そのあたりの「爆発的増殖」の恐さはメキシコ湾の原油流出事故などでも、海の状態の変化として今後目立ってくると思われますが、まあ、そのあたりの暗いことはともかくとして、この「自己増殖の恐ろしさ」を人間に感じさせない一群はあるのです。
それこそ最近知ったことですが、「成長の遅さが際立つ裸子植物の一群」(すべてではないですが)で、これらの裸子植物の人生というものは、ただ見ているだけでも上記オカルト理論でいえば、「1」の生命エネルギーが運動させるというところは超越していて、「2」の、生命エネルギーが実は意志の本体である、というところまでは感じさせてくれます。
その後の「4」あたりの、「生命エネルギーは霊界にまで」となると、いろいろと今はわからないですが、まあ、しかし、植物の幽霊という概念などはあまり聞かないということは、植物は存在自体がすでに霊界と通じているのだなあ(ほんまかいな)と頼もしく思ったりもします。