この一年半くらいで、いろいろと教えていただいたり知ったりしましたが、もともと知っていたら、知る楽しみはなかったわけで、無知は楽しいとつくづく思います。
ただ、あまりにのんびりしていると、知らないまま死んでしまう時もありうるので、適度に知りながら進むというのがよいのかもしれません。
ところで、今回の本題とは関係ないですが、ここ数日内に続々と「太陽系の月」たちへの調査が入ります。たとえば、火星の衛星フォボスは、固体としての密度に疑問があるのだそうで、「空洞説」だとか「瓦礫が集まってできている(固体ではない)説」とかいろいろとあるようなのですが、今週、マーズエクスプレスが接近撮影を試みるらしいです。フォボスは写真で見ても何となく「訳あり」な感じをしていますし、面白い写真が撮れるといいですね。

▲ フォボス。何ともいえない質感であります。
それと、 NASA の「今日の1枚」に、「ヘレネに何が起きているのだろう」という出だしで始まる土星の衛星ヘレネのことが書かれていて、「どうも何だか様子が変」なのだそうです。いつもより表面が滑らかに見えるそうで、ものすごいスピードで動いているようにも見えるらしく、これから詳細に確認作業などがあるようです。
私が見てもよくわからないのですが、これが、今日の NASA に掲載されていたヘレネです。(クリックで拡大)

この下のが通常のヘレネ。

確かにいつもより滑らかに見えるような気もしないでもないです。
今の太陽系では、確かにいろいろと急激な変化とか、あるいは「なんか変なこと」が起き続けているような「感じ」はあります。「感じ」というのは、観測できていなかっただけで、日常的なことかもしれないからです。とはいえ、上のヘレネのページにしても NASA が「前代未聞の(unprecedented)」というような言葉で形容しているということは、それなりに意外なことなのかもしれません。
いずれにしても、いろんなことが急速に起きたり、調べ始められたりしていて、まあ・・・時間との追いかけっこ的な側面はありそうですが、少しでもいろいろとわかるといいですね。
さて、昨日は映画監督のピーター・ジャクソンのことなんかを書いたりしていましたが、映画のことをよく書くのは自分が好きだったせいもありますが、多分、映画(や他のビジュアル)の存在というのは、いかなる個人にとっても大きなものはずで、それは実は個人を越えて、現実の社会にわりとダイレクトに反映していくものだと思っている部分がありまます。
映画も小説も同じだろうという意見もあるのかもしれないですが、訴えかける部分が「左脳」か「右脳」かという部分で、映画と小説はだいぶん違うと思うのです。「視覚」と「判断」との違いというような感じですかね。
たとえば、私たちの世代では、「全面核戦争後の荒廃した世界」とかと「未来社会」いうものに対してのイメージとかビジュアルがある人は多いと思います。
「全面核戦争」なんてのは今生きている人は誰も経験したことのないものなので、実際にはビジュアルで想定できるのはおかしいのですが、しかし、まずはビジュアルが頭に浮かぶことが多いように思います。「未来社会」というのもそうです。これらは大体、映画などから来ていると思われます。
たとえば、1980年に映画を見ていたとしたら、今は2010年。当時でいえば、すでにその「未来社会」は来ているかもしれないのに、現実には大した変わっていない。
それらの映画などの光景は映像として私たちの「記憶」にあるのですが、さて、タイトルを「左脳の未来」としたのは、この「脳にインプットされた映像」というのは、これからの人間の脳活動の関係によっては、なかなかにして大層なことかもしれないと最近思ったりするのです。自分の体験などからのことで、学術的な話ではありません。
ちなみに、私はいわゆる脳の本とか読んだことがないですので、ここで言う左脳とか右脳というのは、わかりやすくするための比喩程度に思って下さい。
夢を夢と判断できる自分
ここから書くのは「もし左脳のサポートがなくなった場合」に、視覚や、脳にある映像や音がどうなるのか、という話です。
たとえば、夢というのががあります。
私たちは眠っている時に頻繁に夢を見ていて、そして、起きた時に、
「ああ、いい夢だった」
とか
「悪い夢だった」
とか思うわけですが、この瞬間に「ああ、夢だった」と判断しているのは、多分、左脳だと思われます。そして、後々、「あの時の夢は」という形で、夢と現実を区分できるのも左脳の理性的な判断によるものだと思われます。
書くまでもないですが、夢の中の夢はあまりにもリアルで、夢を見ている時はそれを夢だとは判断できないことが多いはずです。
なので、そのまま理性で判断しない限りは、ビジュアルだけではそれが夢か現実かの判断は難しいと思われます。常に左脳のサポートで、「あの映像はあの時の夢」と理解していると思われます(「記憶の時間軸」というのも、左脳の役割なのかなと思います)。
・夢の風景
・現実の風景
・映画などで見た風景
さらに、
・今、実際に見ている風景
・過去に実際に見た風景
・記憶の中の風景
・想像の風景(現実にはない風景)
など、「ビジュアル」といってもいろいろとあります。
この区別をまあ、一応ご念頭にお置き下さい。
これらの区別を「全部できる」というのが通常の判断ですが、それは左脳のサポート、あるいは右脳と左脳のリンクが正常だからできているのだと私は思います。
なぜかというと、ものすごく昔ですが、私はこの「左脳のサポートが切れた」経験があるのです。
独立するビジュアル
二十代の始めの頃にパニック障害になったことは何度か書いたことがありますが、パニック障害には、いわゆる医学書や医学サイトに書いてあるような教科書的な症状はもちろんありますが、人によって様々という面はあって、共通項としての「恐怖」や「パニック」というようなことはあるかと思いますが、多彩だと思います。嬉しくはないけど「個性」ですね。
で、もっともひどかった、23歳くらいの時ですが、パニックになりそうになる時に、「頭にあるビジュアルが何であるか判断できない」という状態に陥ることがありました。
これは説明が難しいですが、上にあげた、
・夢の風景
・現実の風景
・映画などで見た風景
・過去に実際に見た風景
・記憶の中の風景
・想像の風景(現実にはない風景)
などのいくつもの形態と時間軸のビジュアルが人にはあると思っていただければいいと思うのですが、「この判断の同時性が切れる」わけです。
記憶の中には常にいろんな現実や想像のビジュアルがあるのと平行して、目から視覚としてもビジュアルは入っていきます。たとえば、今、あなたがパソコンでこれを読んでいるとすると、そのパソコンが見えたり、横に置いてある花やテレビが見えるでしょうが、実はそれはずーっと「視覚の片隅」に入っているはずですが、ふだんは気にしないで「見ないことになっている」わけです。
意識して、「横にテレビがある」と認識したときに、それを「見た」ということになると思います。
このように、視覚には実はあらゆるビジュアルが常に入り続けているわけで、本来なら、全部認識しても不思議ではないけれど、いろんなことを同時に集中しては人間は何もできなくなるわけで、実際には必要なものだけを見るということになっています。
同様に頭の中にも常にビジュアルが存在します。記憶や経験のビジュアルは視覚と平行して、常に頭の中にあるはずです。
たとえば、小説を読みながら、「その架空の光景を想像したり」する。
それを想像しながら、過去の現実の記憶の光景が浮かんできたりもする。
その間にも視覚からは現実のビジュアルが入ってきている。
というように、常に圧倒的な量のビジュアルが視覚からや記憶の中の情報として存在しているわけですが、これを的確に処理できているのは、多くは左脳(あるいは左脳的な役割)で判断して、整理して、必要なものを取り出す。
だから、人は冷静に物を見て、想像できるみたいです。
「みたいです」と書きましたが、この左脳のサポートが切れると、どうなるかというと、「ビジュアルが独立して映像として流れていく」のです。また、「視覚に入ったビジュアルがすべて情報として入ってくる」のです。
うまく説明できないのですが、左脳的に大量のビジュアルの判断を思考で追いつこうとするのですが、頭にあるイメージに説明をつけることができないのです。
これは恐ろしいですよ。
「全部、情報として入ってくる」のです。
部屋の壁も貼ってあるポスターもお酒の瓶も、視覚の中にある情報が処理されずに平等に全部展開される。しかも、そこに想像上のビジュアルも展開されるわけです。
こわいのは、「頭に今ある映像に何の説明もつかないので、その映像の判断ができない。あるいは遅れる」のです。
冷静には「見えているものが今見ている現実である」こと程度はわかるのですが、それへの判断が少し遅れるわけです。
ビジュアルの情報量というのはものすごく多すぎて追いつけない。
多分、一瞬で何百何千というビジュアルが人間の頭と視覚上では展開されています。それを的確に処理している「脳」というのはスゴイものですが、その時にはそんなふうに感心する余裕もなく、アセるだけです。
特に思うのが、「こりゃイッちまったかな」というやつですね。
要するに、自分は発狂してしまったのではないか、ということに対する恐怖です。
しかし、一方で、「自分は狂ったのではないか」と冷静に自分を判断している理性的な自分はいるわけです。そして、そのことを人にも伝達できる。必ずしも、そういうときにひとりのわけでもなかったですから、一応、場はつくろわないといけない。つまり、左脳は機能しているのです。ただ「脳の中の連携が切れた」感じなのです。
ちなみに、面倒くさいんで、当時、演劇の人たちにも仕事の人たちにもパニック障害のことはカミングアウトしていて、「ちょっと具合悪いからタイム」というようにやっていました。このあたりは気楽にやらないと生きていけなかったですし(笑)。
まあ、少し時間が経てばよくなる。
あるいは、お酒を飲んでリラックスすれば良くなりました。お酒は、当時の私には変な安定剤よりも効いたものでした。なので、当時は大事な用事の時になればなるほど、朝から酒を飲んでから行ったりしていました。「会議の前にかけつけ10杯」とかです(10杯かよ)。
それはともかく、そんなことが続いた期間は長くはなかったのですが、今にして思うと、ビジュアルを恐怖なしに判断できていることは幸せなことなのだなあと思います。
コルマン博士の言う意識の統合
コルマン博士のコルマン・インデックスでは、現在は第8サイクルという、2011年2月9日まで続く期間の中にいるのですが、ヤスの備忘録の2007年の記事によれば、この現在の期間は、
統合の原理が左脳の分析的な知から右脳の直観的な知に移行し、物質に限定されない宇宙的な意識が出現する過程
となっています。
第8サイクルも終盤に近づいているということは、次第にその達成に近づいているということなのかもしれません。・・・というところで最近思うことがあります。
私は以前はこの「統合の原理が左脳の分析的な知から右脳の直観的な知に移行し」ということを、単に「左脳の力が衰えて、右脳が肥大していく」というような感じで捉えていたのですが、上の自分の過去の経験を考えると、もしそうなら、「非常に苦痛を伴う変化」ということになってしまう。
なので、私は最近、「左脳の分析的な知から右脳の直観的な知に移行」というのは、当然、右脳は肥大(物理的にという意味ではなく、働きが)していくのでしょうが、「共に左脳も肥大していく」というように考えています。2004年に発表されたコルマン博士の論文には、「意識の統合」という言葉と「バランスの回復」という言葉が出て来ています。
その意識の統合とバランスは、多分、右脳と左脳が共に働きを強くしていくのではないかというように考えるようになりました。
仮に右脳の活動が活発化するとなると、それに見合う左脳の活動がないと、上の私の例のように、恐怖を伴う形でバランスを崩してしまう可能性がある。バランスを保ちながら、今より高い右脳感覚を携えていくには、「左脳にも進化してもらう」という必要はある気はします。
私はもともとかなり右脳的で、論理よりも感覚(だけ)で生きてきた人ですが、最近の私自身を考えてみても、以前より左脳的な働きが少し強いようなことは感じます。
まあ、基本は相変わらず感覚だけで生きておりますが。
それが証拠に、こんなに長い文章もほとんど考えていません。
気づいたらここまで書いています。
クリフ・ハイの言う元型の未来
そういえば、右脳と左脳という話とは違いますが、 WebBot の2009年3月28日配信の ALTA1309 にこんな図が示されていました。
この宇宙でわれわれが経験できるすべての内容は(集合無意識に存在する)元型(アーキタイプ)よってあらかじめ定められている。そしてそうした元型はベルカーブの一般的なパターンで配置されている。元型のこの配置パターンは、われわれ人間の経験を決定している。それとともに宇宙が人間の存在のあり方を決定するのがこのパターンでもある。
として、しかし、1400年代から(支配勢力などにより)この元型パターンに変更を加える試みが続けられてきて、また、20世紀最後の数年間と21世紀の初頭に実施した計画により、元型の配置はこのようになった、と書かれてあります。

多く示されている方に、強く人の思考が傾いているというような意味かと思います。
左のほうが「politician, priest, pedophiles, bankers, and other power loving minds 」とあり、つまり、こちらは地位や権力志向を思考する元型で、右側が「Buddha and all bodhisvattas」となっています。これはうまく訳せないですが、要するに、精神世界や宇宙的な観念といったものに関する元型が右側だと思います。
つまり、2000年頃から最近までは、世界の人々はこの図での「左」寄り、つまり、元型の操作により、富や権力だけに興味を抱くというようなことになっていたと、クリフ・ハイは言っているのだと思います。
しかし、今後、世界の人々の元型はこのようになっていくだろうと書いています。

多くが右の方に寄っています。つまり、富や権力への興味から、人々は感覚的な、あるいは宇宙的で精神的な生き方に比重を置いていくことになっていくのではないかと。
まあ、元型が外部から操作できるものかどうかはよくわからないですが、クリフ・ハイの理想に関しては、私も同じような理想はあります。
クリフ・ハイの言う「意識の覚醒や神的な直感」まで至らなくてもいいですので、「富や権力だけがエライ」というような世界でなくなれば、それは確かにいいなと思います。
右脳が強化されれば、あるいはそういう方向に行けるかもしれません。
そして、そのためには左脳も強くならなければならないと思った次第です。
映画などでたくさん見てきて、私たちの記憶にインプットされている様々な映像がよく生かされるか悪くなるかも、そのあたりと関係してくるのではないですかね。
最近毎回長くてすみません。
でも、書かなくなると、また何日も何週間も開くと思いますので、書ける時には書いておこうと思います。