「またこの時間かよ」と思いつつも、起きてネットを見ると、ヤスさんが新しい記事をアップされていました。
いろいろと興味深く、つい長々とコメントを書かせてもらったりしていました。そこに今年の4月にやっと日本でも公開されるSF映画「第9地区」のことに少しふれたのですが、そのことを書いていたら、どうしてもこの映画でプロデューサーをやっているピーター・ジャクソンのことを書きたくなってしまいました。
ところで、その前に地殻関係の話ですが、最近、日本の至るところでいろんなことが起きていて、静岡で源泉の水位が数百メートル下がったり、日本海側で海の魚の異常があったりと、いろいろと起きています。ちょうど、Walk in the Spirits さんの島田温泉水位の低下はドーよ?という記事で、そのあたりを丁寧にまとめられていましたので、お読みいただくといいかと思います。
その記事にあった「起きていること」を私の方で地図にしてみました。

こんな感じです。
オレンジの部分はフォッサマグナで、源泉の水位が低下している静岡の島田市はちょうど、フォッサマグナの境界地あたりに位置しています。この島田市の水位の低下は「2ヶ月で三百メートル以上」という強烈なものです。
また、琵琶湖では、湖底から1キロ以上の長さで堆積物が噴出中。どちらも普通のことではないので、地殻で何か起きているのは起きているのでしょうが、それが地震に結びつくものかどうかはわからないです。
フォッサマグナの南西方面に沿って起きているということから見ると、地震というよりは、日本列島がこのあたりで分断するという雰囲気のほうが強そうですね(サラッと書くなよ)。
また、九州の大分県と四国の愛媛県に挟まれた豊後水道の周辺ではマグニチュード6.3相当のスロースリップという、揺れを伴わない地震が発生しています。
・豊後水道周辺でプレート間のスロースリップ現象を検出 (国土地理院 2010年3月5日)
沖縄でも2月の終わりに、約100年ぶりとなるマグニチュード6.9なんていう地震(Livedoor 地震情報)が起きて以来、比較的マグニチュードの大きな地震が続いています。環太平洋全体で地震活動が活発化している中で、日本の領域の地震も活発になっています。
日本の中でも、特に関東周辺は世界中(正確には4つですが)のプレートの力が集まる「極」といってもいいところで、世界での地殻変動が活発化すれば、その影響は受けるのだと思います。私も東京ですので、息絶える日まで悔いのないよう毎日楽しく生きていきたいと心がけています。
映画「第9地区」日本公開を祝して
私が映画「第9地区」を楽しみにしている理由は、単純に「ピーター・ジャクソンが絡んでいるから」ではあります。ただ、この映画は、ハリウッドの一般の大作のように、事前にガンガン宣伝して、スターたちが出て・・・という映画ではなく、監督は無名、俳優も無名、ロケは南アフリカという地味な組み合わせで、それにも関わらず、作品として圧倒的な支持を得たわけで、このあたり楽しみではあります。
ピーター・ジャクソンは最近では、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズで有名なようですが、私はあれらの世界観がよくわからないので、最初の「ロード・オブ・ザ・リング」を見ただけで、あとは知らないですが、それらハリウッド・メジャーの作品はともかくとして、ピーター・ジャクソン監督という人の「人間」に対しての考え方が好きで、それはデビューからの3作品にすべて現れていると思っています。
デビュー作である、人間をファーストフードにするためにやってきたエイリアンとの戦いを描いた自主映画のギャグSF「バッドテイスト」。世界でもっともグロい映画として有名となった2作目の「ブレインデッド」。また、1954年にニュージーランドで実際に起きた女子高生ふたりによる実の親殺しの事件を少女の観点から描いた歴史的傑作「乙女の祈り」。
中でもブレインデッドを見た時には、感動のあまり涙が止まらないという始末で、
「こんなグログロなスプラッタの何に感動するの?」
と一緒に見た人に疑問視されたほどに描写がグロい映画なのですが、しかし、その頃のピーター・ジャクソンの描く世界にはひとつの共通項があって、その世界が好きだったのです。
それは、「内気な人たちが、精神的に管理された生活の中で、何とか自分だけの幸福を見出そうとする」というようなもので、また、「そのツールとして異常な方法を選ぶ」というのも共通しています。
ニュージーランドのアン・ペリー事件を描いた映画「乙女の祈り」のツールは「親を殺すこと」だったし、シャイなふたりの恋の成就が「果てしない数のゾンビを切り刻む作業の結果」として現れるブレインデッドでも、根本のテーマは「(自分を管理している)親のゾンビから解放されること」でした。
管理される対象は映画によっていろいろですが、「そこから解放される道筋」というものが示される映画がほとんどです。
初めてハリウッドで監督をしたマイケル・J・フォックス主演の「さまよう魂たち」という映画もそんな感じでした。内気で世捨て人になっている主人公の恋愛話。
ストーリー自体は、死者と共に生きる主人公が、「死神」と戦うというもの。自分を束縛している過去の思い(事故で死なせてしまった妻)からの解放が話のキーでした。
つまり、この人のほとんどの映画に共通するのが「精神の自由への道標」なのです。
そういう人がブロデュースした「第9地区」ですので、まだ見ていないとはいえ、多分、視点は、エイリアンと戦う「人間」からではないと思います。エイリアンからの視点、あるいは、人間と反対のほうからの視点になっているような気がします。つまり、「宇宙戦争」などとは正反対の視点です。
宇宙戦争の視点とは、西洋の、特に白人の人たちに多いと思われる視点。
・人間はエイリアンから守られて当然。攻めてきたら攻めて倒すべき。
という視点。
その正反対の視点とは、埴谷センセイ風にいえば、「存在の真逆の視点」かと思われます。つまり、攻める、攻められる、の観点ではなく、
・人間とエイリアンの区別はつかない。
というあたりの視点。
まあ、これは観念としての想像であって、「第9地区」は予告編を見ただけなので、どんな映画かストーリーを含めて知らないですのですが、何となくそんな気がしたのです。
最近、日本語字幕の予告も何種類か出ていましたが、音響の使い方のせいだと思いますが、どうもオリジナルにある緊張感がないような感じがしました。予告の内容は同じようなものですので、下のオリジナル予告を見られることをオススメいたします。

・第9地区 日本語版予告編
・オリジナル予告編 District 9 Official Trailer
食べることへの反省
上で、私はあえて「白人」という言葉を使ってしまったのですけれど、ヤスさんのコメントに埴谷センセイの動画のURLを貼るために、また「埴谷雄高独白 死霊の世界」を見ていたのです。

埴谷雄高独白 死霊の世界(15)より。
そこで埴谷センセイはこう言っています。
書いてみました。
ゼロと無限大っていうですね、存在論の根拠みたいなものが最後に出てくる。要するに、生き物が生き物を弾劾しても、それは「最後の審判」にならないということなんですよ。「最後の審判」っていう章は。
それは違うぞ、というところからが重要な問題なんだけど、食われた者は食った者を探し出して審判してというのは、それは違うぞっていうのが、あの章の眼目なんだけれども、それはうまく書かれていないですね。
だから、「最後の審判」っていう考え方が駄目だと言っているわけで。「最後の審判」ではなくて、新しい存在の革命をやって、作らなければならないと言ってるんですよ。そういう・・・食われた者が食った者を弾劾するという、そういう世界を作り替えていかなければ駄目だということですね。
しかし、弾劾の始まりはね、食うことにあるわけですよ。それに対して、現在は非常に盲目的で反省していないってことに対しては、食われた者が食ったものを弾劾するということにも意味があるでしょうね。ことにヨーロッパでは。
ヨーロッパでは本当に食ってるんだから。コロンブスのアメリカ発見で、アフリカ人を奴隷にして使っても、全然平気なのは、山羊を殺して食っている、ああいう考え方の延長なんですよ。
奴隷は煮ても焼いても食っても売り飛ばしてもへっちゃらだという考え方なんですよ。これはすごいですよ、ヨーロッパは。帝国主義では、日本もそうなって、近代化する時に、植民地を作って、植民地のやつをどうしたっていいという考え方を日本もヨーロッパからもらったけれども、ヨーロッパのすごいのは、ものを食うということに関して、何の後ろめたさもなく食ってることですよ。
日本人はね、コメは百姓が一生懸命作ったんだから、こぼれたのは拾って食べなさいとか何とか、中野孝次(「清貧の思想」)のお母さんなんかは言ってたわけですよ。
これは、埴谷センセイが、「人間は無思考にモノを食っていることを少し反省したほうがいい」と言っているわけなんですが、非常に面白く感じたことがあります。
もういつだったかわからないですが、昨年の秋頃、映画「宇宙戦争」を見てから、私は肉を食べられなくなってしまいました。翌日から肉を噛めなくなってしまったのです。
それから半年近く経ちますが、今もまあ同じです。
この場合、「肉」というのが問題なのではなく、「食べることに対して」の反省を初めて感じた、ということが大事なことです。肉食そのもに関しての批判でないです。
なぜなら、「食べることへの批判」を開始すると、人間は何も食べられなくなり、ついには、ジャイナ教のように「息をするのもいけない」という抜け道のない蟻地獄にはまることになる気がするからです。
白人の人たちの、特定の生き物を殺す(食べる)ことに対してだけ行う批判というのも、それは突き詰めると、自分たちの息を止めるとか止めないというようなところにまで行き着く大変に深くて複雑な思想になっていくと思うのですが、その矛盾はわからない場合には永遠にわからないようにも思います(特に西洋の一部の人たちには)。
まあ、ともかく、この「食べ物を食べることに対しての反省」が、究極的な白人思想、上の埴谷センセイの言葉で言うと、「奴隷は煮ても焼いても食っても売り飛ばしてもへっちゃらだという考え方」に基づいて(根源的な観念として)作られている「宇宙戦争」からインスパイアを受けたということがおもしろく感じたところなのですね。反面教師的でもあり、あるいは「実は思想なんてどんなものでもいいのかも」ということにも感じたりしました。
いい思想とか悪い思想なんてないのかもしれない、と。
結局、いろんな「意見」や「主張」というのは、個人にとっては実体のないものなのかもしれないと感じます。
どう生きていても、人間は自分の心の中に戻っていく。