「とびっきりの感動をお届けします」
という声が飛び込んできました。
感動というのは人間にとって、もっとも大切な感情であって、感動によって人間は生きていて、感動がないと人間の意識は死に絶えてしまうと私は思っているのですが、では、何が感動かというと、それは個人の問題であって、あらかじめ「これに対して感動しよう」と準備して訪れる感情ではないと思われます。
なので、感動というのは、
「お届けします」
と、上から押しつけられる感情ではないはずです。
気づいたら感動していた、とか、知らず知らずに泣いていた、とか、そういう類のもので、誰かから「お届け」されなくても結構なわけです。
感動が感情の最たる表現だと考えると、「感動をお届けします」という言い方、すなわち、
「感動して下さい」
という言い方は、
「泣いてください」
とか
「笑ってください」
という言い方と同じことで、本来は自由意志である人の感情を規定しようとしているように感じます。子供の頃からこの件に関してはイライラしていて、何十年経った今でも続いているということはさすがにきつい。
私はテレビはほとんど見ませんが、奥さんと子供はよく見ています。その子供が、メディア側から
「こちらが笑って下さいと言ったら(楽しくなくても)笑って下さい」
「こちらが泣いて下さいと言ったら(悲しくなくても)泣いて下さい」
と、感情を上からの操作で規定されていくという生き方になっていくのはツライものがあります。すでにメディアはある意味ではそのあたりの感情操作には成功しているわけで、テレビで「さあ笑って下さい、さあ泣いて下さい」と最初に指示することで、多くの視聴者はそれに従います。親バカとはいえ、自分の子供くらいはその感情操作から逃れてほしいという気持ちはあります。
ポル・ポトは自分の政権が樹立した後に国民に対して、
泣いてはいけない。
泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。
笑ってはいけない。
笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。
と、指令して非難されましたが、非難されずして達成したのが現在のメディアのようにも感じてしまいます。
まあ、メディアの話はもういいや。
そういえば、先日、2月23日に、NASA の宇宙気象サイト Spaceweather.com に、「100万キロの長さに及ぶ太陽上のフィラメント」というものが現れたことが解説されていました。 GIF 動画がありましたので、載せておきます。左下の長いのがそれです。なんとなく「龍」っぽい感じもあり、なかなか壮大な感じです。

これは、ハイダーフレアという、巨大なフレアの原因ともなるもののようなのですが、この長さはもちろん、幅だけでも、地球の数十倍はありそうなもので、まったく太陽は出すものすべてが大きいわけですが、こんなものに「大きい」と感じるあたり、先日の記事の人間サイズの呪縛から抜け出すことの難しさを感じたりします。
このフィラメントとハイダーフレアの関係や原因などはわかっていないようで、NASA も「読者の皆さんの観測に期待します」というような控えめな書き方となっています。
ケツァルコアトルとの再会
ヤスの備忘録の最新記事へのコメントにケツァルコアトル(マヤやアステカなどの古代の中南米文化の神様のひとつとされるもの)などに関してのリンクがあり (今見たら、ここにもコメントを下さる Ku_uu だった)、ケツァルコアトル自体は、ヤスさんがマヤカレンダーについて書かれていた以前の記事で読んだことがあります。その時は気づかなかったのですが、先日、ふと、
「このケツァルコアトルって、オレが高校の時好きだったバンドのアルバムのジャケットに書いてあるやつじゃないの?」
と、そのアルバムを引っ張り出して見てみるとビンゴで、イギリスのフライング・リザーズというバンドが1981年に出したアルバムのジャケットに書かれているのは多分これはケツァルコアトルなのだと思います。
こちらは、「テリェリアーノ・レメンシス絵文書」という昔の絵文書に描かれているケツァルコアトルの姿です。

で、こちらがフライング・リザーズのアルバム。

多分、これケツァルコアトルですよね。
これは前衛ポップ系のアルバムなのですが、高校の時もっとも好きだったもののひとつです。当時は「変なジャケット」と思っただけで、レコードも古代文明なんかとは関係なさそうなものでしたが、30年後にこういう形でリンクするというのは、なかかな感慨深いものがあります。
YouTube にフルアルバムがあります。
Flying Lizards - Fourth Wall (Full Album)
ちょうど、先日、ケツァルコアトルのサイトを要約したりしていたのですが(こちら)、ケツァルコアトルは風と金星と夜明けを司り、また、商人、芸術、工芸、および知識も司るというようなものらしく、芸術にも多少は関係する神様だったようです。
こんなよくわからないケツァルコアトルのイラストもありましたが

▲ ケツァルコアトルも人間サイズ?
いずれにしても、最近、こういう、昔の経験と現在がリンクすることがとても多くなってきていて、それなりに「人生無駄ではなかった」というような気分になることもありますし、あるいは、「もう満足したから死んでもいいや」と思うこともあり複雑ですが(苦笑)、他にもリンクしてくることもあるかもしれないので、もう少し生きるのもいいかとも思っています。
なんかちゃんと書こうと思っていたのですが、今回は雑談で終わってしまいました。
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