「ってことはジミヘンも同じくらいでは」
と、調べてみると、モンタレー・ポップ・フェスティバルで、ステージ上でギターを燃やし、破壊し、音楽性とパフォーマンスと共に世界に存在をアピールしたのが1967年。

▲ モンタレー・ポップ・フェスティバルでギターを燃やすジミ・ヘンドリックス。ジミはギターをよく壊しましたが、その理由をインタビューされても、理性的な答えで答えたことはなかったです。衝動先行なので、「答えられなかった」と私は思っています。
何より、史上初めての屋外ロックフェスティバルであるモンタレー・ポップ・フェスティバル自体が黒点の最大期っぽい感じのイベントといえそうです。
この時は、ロックバンドのザ・フーも、演奏後に機材をぶち壊して、会場を混乱に陥れますが、この「メジャーバンドがビッグイベントで破壊に走り出す」なんての自体がそれまでの歴史になかったことでした。

▲ こちらはモンタレーのザ・フー。フーはドラムのキース・ムーンの破壊が有名でしたが、この時はギターのピート・タウンゼントが主導でギターやアンプを壊しまくりました。破壊は予定になかったので、スタッフたちはとてもあせったそうです。
この「無意味な破壊」というのは、1979年前後の黒点最大期にも当てはまることで、前後の歴史にそういうことがあまりないことを考えると、少なくとも音楽からは「黒点と破壊」というのはかなり結びつくように感じます。また、この破壊というのが、「理由のある破壊」ではないのですよ。ほとんど理由が感じられない破壊であって、「単に熱狂の結果」としか言いようがない。
ちょうど、黒点最大期の1979年に発表された映画に「マッドマックス」という、私の大好きなオーストラリア映画がありますが、奇しくも、その映画の中の台詞にこれを説明するようなラインがあります。悪役の副ボス的な存在の人が、子供たちに潰れた車(その車は彼らが破壊したもの)について「あの車はどうしてあんなにグチャグチャなの?」と聴かれて、
「不安の結果なのかもしれないな」( Perhaps it's the result of an anxiety. )
と答えるシーンがあります。

▲ そのシーン。こちらの3:50くらいから。
当時は意味のよくわからない台詞だなあと思っていたのですが、今にして考えると、「不安だろうが何だろうが、原因は関係なく何でもかんでも結果は破壊となって現れると言いたかったのでは」と考えると、この台詞はわかりやすいです。思えば、マッドマックスの台詞はよくできたものが多くて、若かった私はずいぶんと感化されたものでした。
というわけで、破壊は黒点の最大期とリンクする概念だと私個人は思います。
ただ、これは「破壊的なことが増える」という意味だけでなく(それもありますが)、「理不尽で意味のわからない破壊が増える」ということのようにも感じます。つまり、「衝動」とか「熱狂」が先行するので、結果どうなるかはあまり考えないと。その衝動や熱狂があまりにも激しいので、結果、破壊という結果に辿り着きやすいのではないかと思っています。
黒点増大期に見られる「幻想」
音楽史と黒点の関係を見る上で、破壊以上に感じるのが、「幻想」という概念です。
1967年のモンタレーも、2年後のウッドストックも黒点増大期周辺のイベントですが、あの頃の音楽ファンたちの行動や考え方、そして、当時の「音楽と人生の関係」(ヒッピー・ムーブメントのようなもの)などを考えると、多くの人々が「これで世界は変わるかもしれない」という大きな幻想の中にいたように思います。1967年は私は3歳でそのあたりは実体験は覚えていないですが、3歳なりに「幻想」は持っていたのかも。
そして、1979年の黒点最大期には、パンクという概念が幻想と共にいました。
これは私は直接的に経験しているのでわかりますが、この(パンクで)「世界は変わるかもしれない」という幻想とその呪縛はものすごく巨大で強力で、多分、今でも(私もそういう部分はありますが)、いまだに多くの人は幻想から抜け出していないと思われます。
その次の1999年あたりになると、ちょっと音楽と黒点の関係をどこにもっていっていいのかよくわからないですが(この頃から、音楽のジャンルが混沌としてきた)、私より少し若い世代の方なら何か「破壊と幻想」を1999の年から2001年くらいの黒点増大期に感じるのではないでしょうか。
もちろん、「全員が同じ幻想というわけではない」わけで、いろんな人にいろんな幻想がその頃あったのではないでしょうか。そして、出発点は別でも、それは等しく「将来は良くなる」という幻想だったはずです。私は音楽としてのバンク・ムーブメントと、演劇の周辺くらいのことしかわからないですが、いろいろな人のいろいろな生き方の中に、その幻想は見られたのではないかと思ったりします。
そして、今現在の歴史から見ると、1967年代の幻想も1979年の幻想も「実現せずに終わって」います。だから、「幻想」と書いたわけで、実現しているなら、幻想ではなく、夢とか目的とかいろいろと表現できそうですし。
また、「幻想」としたのは、「明確な理想のヴィジョンを説明できなかった」ということにもあります。まさに「曖昧」。本当は曖昧なままでもいいのですが、それでは実現するのは難しい。だから、音楽という認知度の高いツールを使って、「曖昧な革命」を進めようとしたのだと、今は認識しています。
黒点は大体ですが、1967年前後、1979年前後、1989年前後、2000年前後くらいに非常に多くなっていますので、ご自分の人生やライフスタイルの中で照合されると面白いかとも思います。
まあ、大体、ロックの歴史自体が、黒点最大期だった1890年頃に発祥したと推測される黒人のブルースがすべての始まりですから、もともとが「熱狂的である」という性質はあるのだと思います。
今後の数年間も同じような熱狂と、あるいは「破壊」はあるようにも思いますが、人によっては、私の若い時のようにむしろ楽しいはずですので、これは悲観的なことではなく、歓迎されることだと思います。
個人的にはすでに気持ちのたかぶりが始まっていて、「いつでも高校2年生だぜ」(笑)という心づもりの四十代後半なのでした。
[追記]Doors of Perception
ドアーズ絡みで、ちょっと書き忘れたことを追記します。ドアーズのバンド名の由来を知らなかったのですが、ウィリアム・ブレークという18世紀のイギリスの詩人の「天国と地獄の結婚」という作品の中の一説を、アメリカの作家・オルダス・ハクスリーが引用した文章にある「Doors」からとったものだそう。
そのラインは、
もし知覚の扉が浄化されるならば、全ての物は人間にとってありのままに現れ、無限に見える。
If the doors of perception were cleansed, everything would appear to man as it truly is, infinite.
だそう。
「ありのままに現れ」の部分は原文で、「as it truly is」となっているので、他の訳もできるかもしれません。
これはずっと幻視体験を絡めた神秘的なものとして紹介されていたようですが、最近の物理学、量子力学などを眺めていますと、「具体的な話では」と感じます。
「考え方を変えると科学的な発見にも新しい道が見つかり、新しい存在概念が見える」というような解釈もできそうな感じがします。
「全ての物は人間にとってありのままに現れ、無限に見える」というのが人間の方向性なのですかね。そうだといいですが、これもまた上に書いた「幻想」の可能性もあります。