2009年12月27日

バングラディッシュの楽器に見るアジア的カオス

今回は完全に音楽の話です。しかも何の華もない話ですので、公共の場に書くのもどうかなあとは思ったのですが、わからないことが多く、もしかしたらここに書けば何か知っている方が偶然通りかかって教えてくれたりするかなあ、とか思って、書かせていただきます。

Overdose Japanをたまに読んで下さっている方なら目にされたこともあると思いますが、今、私は音楽収集の日々を送っています。「第6の夜の音楽」を考えていく上で、いろいろと考えるところがあり、今のうちにもう少しいろんな音楽を聴いておきたいということがあります。今はインターネット全域に音楽そのものが存在しているので、その音楽収集が数千曲で終わってくれればともかく、数万曲、数十万曲となっていくと、そのまま人生が終わっていく可能性があります(笑)。

今回、こちらの海外音楽ブログで紹介されたもので、聴いてみて、曲自体をとても気に入ったのですが、楽器がよくわからないものがありました。
下のは私がアップしたものです。

Chimbuck Murung - Dance For The Sacrifice



ブログの説明を読むと、楽器は、バングラディッシュのミャンマー沿いの国境周辺に住む、ムルン族という人口5万人の民族が使っている、アシでできた「mouth-organ」(ハーモニカ)だと書かれていて、曲はムルン族の儀式のための音楽らしいです。

「しかし、この音はハーモニカじゃないな」

と聴き直した後、レコードのジャケットを見てみると、こんなイラストが。
きっとこんな楽器で演奏しているということでしょう。

mouth-1.jpg


「ははあ・・・これは笙(しょう)だ」

笙は日本の雅楽器で、演奏風景はこういうものです。

shoh-1.jpg

笙は、日本では、基本的に雅楽で使われるもので、このバングラディッシュの曲のようにリズムがあって踊れるようなものにはあまり使われないので、楽器としてまったく想定できなかったわけですが、「そんなに遠くのアジアまで同じ形態の楽器が広まっているものなの?」と、軽いショックを覚えたわけです。

この「ムルン族」というのに関しては、日本語でのネットでのデータベースには「ほぼ何もない状態」で、「バングラディッシュ ムルン族」の検索結果はたった6件(ムルン市で検索するともう少しは出てきます)。英語でも80件くらいで、少数民族のことについて、ましてその生活やカルチャーを調べるというのは難しいことです。


笙に限らず、日本の伝統楽器の多くは中国や朝鮮半島などから来ていて、また、相互に行き来をしているうちに楽器にも変更が加えられたりして、その国々特有の楽器となっていったと思われますが、Wikipediaを読みますと、

 > ラオス、タイ王国北東部では笙と同じ原理のケーンという楽器があり、一説では、これが中国の笙の原型であると言われる。

ふーむ・・・。

これらはフリーリード楽器と呼ばれる楽器群ですが、フリーリード楽器ではベトナムの古楽器でも、Mbuat(読めない)という楽器を見つけました。

imbuat.jpg

形が独特で、何だかギーガーのデザインっぽくもあり、むしろ未来楽器みたいな感じですが、これがベトナムとバングラディッシュの文化を結ぶひとつの証しとも言えるのだそう。そして、もちろん、中国、朝鮮半島の国、ラオスやタイといった国にも同じ原理で音を出す楽器が広がっている(いた)ということになります。

しかし、私は昔から思うんですが、雅楽って聴いて楽しいものなのかどうかというのは思っていました。どんな音楽でも娯楽的な要素を含みながら発展してきたわけですが、雅楽はどうなのか。

たとえば、日本人なら誰でも耳にしたことがあるであろう有名な雅楽「越天楽」などを聴いてわき起こる日本人としての感情はどういうたぐいのものなのか。

まあ、楽しいか楽しくないかを別にして、確かに雅楽には日本人に何か特別な感情をひき起こさせるものはあるとは思います。たとえば、雅楽が鳴っている横でシンナーを吸ったり、万引きをしたり、痴漢をしたりというような気分になる人は少ないのではないでしょうか。「神聖」というのとは違うかもしれないですが、何か少しシャキーンとさせるものはあるような感じはします。

私は、いい音楽に対する定義として、

・民衆のものである
・感情(楽しい、悲しい、怒り、など何でも)を惹起させる


という2つがあって、それがあれば、パンクでもマンボでも民謡でも何でもいいのですが、では、雅楽はどうなのか。

いくら神や国家に捧げる偉大な文化音楽でも、民衆が介在しない音楽には存在意味はないと思っていますので、雅楽、あるいは雅楽で使われる笙はどちらかを介在させる力はあるのか。

・・・というようなことをたまに思っていたのですが、今回、「バングラディッシュの笙」で作られた儀式の音楽を聴いて、

「まあ、ありかな」

という曖昧な結論に傾きつつあります。

この楽しいバングラディッシュの儀式音楽は、捧げる対象が神なのか何なのかどうなのか、バングラディッシュあたりの土着宗教を知らないのでわかりませんが、人々の「信仰」に対しての気持ちがとても伝わってきます。

多分、昔はこういう曲をエンドレスに近い状態でえんえんと演奏し続けたのではないでしょうか。ハイになるための音楽。東南アジアや東アジアあたりの伝統音楽はリズム的にはこの「二拍子」というのが多くて、今でも延々と踊るのが好きなタイの人たちなどの様子を見ていると、「昔はこういう伝統曲でえんえんと踊っていたのだろうなあ」と思います。

そして、私はこのバングラディッシュの曲を何度か聴くうちに、

「なんだかんだいって、アジアはつながっているよなあ」

と、論理的な部分はまったくなく、ただ単にそう感じてしまっていい気分になったのでした。

あくまでイメージの話ですが、西洋的な宗教のイメージが「人々の前に立つ代表者の前にひれ伏す民衆たち。そして、代表者に従う民衆たち」というような感じがありますが、アジア的な(古代)宗教のイメージとして、「みんなでグチャ〜と酩酊していく」というようなものがあります。最終的には「誰がここの代表?」というようなことになっていくような。

カオスはカオスですが、アジア的なカオスはいいカオスじゃないかと思ったりするのであります。

今はアジアのどの国も西洋的な、あるいは、金融支配的な構造でギチギチになってしまっていますが、その「西洋的金融支配」という呪縛から解かれれば、意外とアジアは楽に生きられる(あるいは死ねる)ところなのかなあと思ったり。


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posted by noffy at 19:28 | 地球の歴史