都心に近いビルの最上階で、一面は全面ガラス張りとなった広い部屋でした。外にはいくつかの高層ビルが立っていて、その下に小さな川が流れています(後で調べると、芝浦運河という運河)。ふだん、こういうおしゃれな場所に来ることはほとんどありません。
そこに3棟並んで立つビルはオフィスビルではなく住居ビルのようで、それはほとんどの家の窓から見える照明が白ではなくオレンジ色(蛍光灯ではない)であることから伺えました。そのオレンジ色の照明が川の表面に反射して全体的に炎のようになっている。
全面ガラス張りの広い窓から見る燃える高層ビルの風景・・・。
「なんか見たことある光景だなあ・・・」
と少し考えてみましたら、これは1999年の映画「ファイト・クラブ」のエンディング・シーンであることを思い出しました。

▲ ファイトクラブのエンディング・シーン。
「おお、これはまさに・・・。このままあの3つのビル全部が爆発炎上して崩壊して、そして、オレの横に美女が立っていれば、ファイトクラブそのまんまだ」
と、好きな映画のワンシーンの中に自分がいるような気分になり、うっとりとしていました。
「消費に対する強迫観念」(理想的なアメリカ人であるためには商品を買わなければならない。そして、いい部屋に住まなければならない)に関する主人公のコンプレックスが出発点となって始まるこの映画は、その個人的な解決の方法をテロに求めたストレートな内容でした。
エドワード・ノートンとブラッド・ピットが多重人格の同一人物を演じたこの映画では、スペース・モンキーズという破壊集団がテロ活動を開始し、最終的には、金融街の金融ビルを同時多発テロですべて吹き飛ばすことになります。
小説版では彼らの集団の最終目標「金融街への同時多発テロ」の目的が書かれているそうで、
・新しい暗黒時代を作り出すことで人類の技術の進歩を遅らせること
・歴史の消去
だったそう。
なぜそんなことをするのかは、ハッキリはしませんが、多分、映画の主人公の衝動の基本である「大量消費に対する強迫観念」を消すためだったかもしれないです。
その目的が達成されたのが前述したラストシーンです。
それはテロの達成というシーンでありながら、見ている者たちすべてに「これで僕たちはやっと消費に対する強迫観念(家や車や家具を持っていないとちゃんとした社会的人間ではないという強迫観念)から救われるかもしれない」という感動を残してくれたわけです。
その後、10年後くらいにリーマン・ショックみたいなものが起こって、金融街は爆弾で吹っ飛ばさなくても壊れるかもしれないという可能性は与えてくれたのですが、まあ、それでも、現実はファイトクラブのような爽快さはないですね。
この映画はこちらによると、興行成績では悪かったにも関わらず、映画雑誌エンパイアの「過去最高の映画」で10位、「最高の映画キャラクター100人」の1位がこの映画でブラット・ピットが演じたタイラー・ダーデンだったそう。
「完全な現状否認」のこの映画がこれだけ熱狂的な支持を得られたというのは、感慨深いものがあります。
現状否認。
これはかなり小さな頃から、を貫いているひとつのテーマではあります。
「現状非難」ではないです。嫌いではなく、認めることができないという感じなんでしょうかね・・・これに関してうまく言えないのは今にはじまったことではないですし、一生言えない感じがいたします。
埴谷雄高センセなんてのに至っては、「AはAではない」ということを説明するために50年かけていたわけですが、「AはAではない」というのは要するにすべてで、「例外がない」というのが埴谷センセの強烈なところでしたね。
つまり、
自分は自分ではないし、
地球は地球ではないし、
宇宙は宇宙ではないし、
見えているものは見えているものではないし、
これはこれではない。
このように否認していくと、この世にあるほとんど(100%に近く)は否認されていくしかないと思うのですが、そうすると、どんどん我々の世界は「ゼロ」になってしまう。ゼロになってしまうと、そこには世界がないから生きることができないのではないか?
さて・・・どうしたらいいのか?
センセはNHKの番組の中で「それでいいんですよ」(苦笑)とおっしゃっておりましたが、「ゼロ」の地点に向かうのはいいが、そこからどうするか、というのが個人個人の一種の「人生の問題」なんでしょうね。
よくわかんない話になってしまいましたが、この「2009年」という個人的には特別だった1年が過ぎようとしている時に際していろいろと考えるのでした。
そういえば、最近、周囲で「時間が経つのが早いねえ」という言葉をよく聞くようになりました。自身はちょっと前までは加齢とか年の瀬とか、あるいは「思い込みだよな」などと考えていたのですが、今は思い込みと言えないほどすごいです。
びゅーっと時間が過ぎていきます。