2009年11月03日

第6の夜が人間に与えたテーマ(消えていく神)

先ほど、夢というのか天啓(笑)というのか、とにかく眠っている時に「第6の夜のテーマ」について、翻然と悟った感がありまして、ふと目覚めて、今これを書いています。ここでは音楽の話として書きます。

その時に見たものについて起きてからしばらく考えてみて、「これは確かにそうかもしれないなあ」と思いましたので、ちょっと流れが混乱するかもしれませんが、書いてみます。「第6の夜と音楽」としていますが、音楽に対してだけではなく、もしかしたら、他のいろいろな文化や思想とも通じるところがあるかもしれません。

先にテーマというか、その結論の主旨を書いておきますが、それは、

・神から人間への主役の交代

ということです。

あるいは「神の消滅」というようなことでもいいのかもしれませんが、「消滅」というニュアンスは何となく否定的でもありますので、「主役の交代」というような感じでいいかと思います。

古代からずいぶんと長い間、多分、人間の文明発祥の後の10万年間くらいは、音楽というのは神(その正体が定義されていない古い頃から)を賛美したり、神を喜ばせるために存在していました。

中世に入ると、特に西欧の多くは基本的にはキリスト教が世の中を支配していましたので、クラシックなどを含めて、「キリストを讃える」というような感じで音楽は発展していったと思われます。音楽を作っている本人が実際にどう思っているかというのは関係なく、「それ以外の表現精神は許されなかった」と。キリスト教だけではなく、イスラム教でもヒンドゥー教でも、あるいは仏教などでさえそうだった(ひとつの神を称えるための文化表現)かもしれません。

そこで称えるのは個人よりはまず神だったというようなことは言えそうです。
この構造に変化が起きるまでの何と長かったことか。

「讃えるべきは人間などという矮小な存在ではなく、神なのである」

という構造に支配された10万年。自分の恋の悩みを語るにも神を引き合いに出さなければならなかった10万年。

まあ、今でもその構造や概念はたくさん残っているでしょうが、すべてではないように思います。

恋の喜びを歌い、日々の喜びを表現し、悲しみを嘆き、世を憂い、人種差別を糾弾したり、ふるさとに思いを馳せるような歌や音楽はたくさんありますが、これらは神に捧げたものではなく人間に対して捧げた、あるいは「共有する価値観」だと思われます。

なんでもないこの「人間が人間を讃える」という日常的な表現に到達するのに、コルマンインデックスから見れば、人類は10万年かかっています。その完成期が1972年から1992年の間の「第6の夜」だったのではないか。

というのがさっき見た夢の概要であります。

単に「人間が人間を表現する」ことの萌芽というだけでも、1800年代の終わりにブルースが誕生するまでなかったことです。そのブルースさえも、黒人霊歌からの発展というような話もあって、「神からの呪縛から解放される」には本当に長い時間がかかったことに驚きます。

具体的な個別の音楽に対してのことにはふれないようにしますが、私がたまに取り上げたりするマイナーな文化、たとえば、ノイズ音楽とかハードコアパンクといったようなものがどうして必要だったのかというと、それは「人間主体を価値観とするあらゆるタイプの人間の発掘の必要性」があったためと思われます。

ノイズやパンクスの人たちは基本的に神を賞賛しません。
それどころか、ステージで偶像を破壊して笑ったりしている人たちです。
この行為がいいか悪いかは別として、その先には「神どころじゃねーんだよ」という、必然的に、人間たちが日々の生活の中で考えなければならない大事な問題が潜んでいます。それをどんな方法でも(暴力的にでも)引き寄せる力を持つ人たちを世界中から集めるためには、「新しい音楽ジャンルが必要だった」のだと思います。

社会革命が良かろうが悪かろうが、暴力を伴うのと似たような感じかもしれません。

さて、何がこれらの変革を導いたか。

私はそれは「人間の元型」だと思います。

元型とはユングの言うところの、「共通無意識のさらに下にある、全人類が共通に持つ価値観」のようなものです。この元型の正体はまだ今ひとつわかっていませんが、最近、WebBot のレポートを使って、「 WebBot から元型を探し出す」というようなことをしたりしなかったりしていますが、それは今回はいいです。

いずれにしても、元型の目標は、多分、人間が神から脱却して、人間自身に価値観を見出していくことなのではないかと思う部分はあって(ただし、ここに至るためには WebBot で言うところの「普遍的人間」という価値観、つまり、「私たちは宇宙全体の中のひとつの人間である」ということを思うことが必要だと思いますが)、仮にそれが正しければ、前回の第6の夜に起きた様々な文化活動は何となく理解できるのです。

もちろん、人間がそれまでの数十万年間、「神」だと思っていたこと自体も元型なのかもしれないですが、そのあたりまでになると、ちょっと話が壮大すぎてよくわかんないです。そこまでなると、人間の最終目標は「神と言われるものたちとの元型レベルでの戦い」ということになってしまうからです(書いていて自分でも意味がよくわからなくて、すげー)。

書いていて笑ってしまうくらい壮大で気持ちいいですが(笑)、これらは基本的に寝ている時に頭の中で展開された話ですので、あんまり真に受けられなくてもいいと思いますが、夢で教えられたのなら、それこそ元型。
これも元型、あれも元型、たぶん元型、きっと元型と、松坂慶子の「愛の水中花」のようなことになっていくわけですが、考えてみれば、「愛の水中花」も1979年の歌で、第6の夜の歌ということに気づき、納得したのでした(・・・)。

音楽以外の文化で1972年から1992年の間には何があったのかのはきちんと調べてないですが、小説とか映画とかポップカルチャーとか、宗教学とか考古学上での発見とかを調べると、もしかしたら、この「神から人間へ」ということがもっとわかるのかもしれませんが、今はとにかく飛び起きて、メモを兼ねてこれを書いています。

最近、夢が楽しいです。
実は今回、他にも夢で何か言われたのですが、忘れました。

この「忘れる」というのが悔しいところで、多分、区切りの時代(1971年と1972年、そして、1992年と1993年)をもっと見てみろということだったと思うのですが、何を見ればいいのやら。

と思って、アングラを離れて日本の1972年の流行歌を見てみたら、これは思い出がある曲ばかり。私が9歳の時ですが、これらは今でもどれてもカラオケで歌えますね。

ちあきなおみ「喝采」
宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」
小柳ルミ子「瀬戸の花嫁」
よしだたくろう「結婚しようよ」
天地真理「ひとりじゃないの」
山本リンダ「どうにもとまらない」
平田隆夫とセルスターズ「ハチのムサシが死んだのさ」
橋幸夫「子連れ狼」
郷ひろみ「男の子女の子」
森昌子「せんせい」
アグネス・チャン「ひなげしの花」


これらから探ることのできる、「神との決別」はどのあたりか・・・(うわあ、難しい

まあいいや。
明日からまた考えよう。

アメリカのアンダーグラウンドヒップホップのトップにいるプロデューサーのマッドリブ(Madlib)という人は、2003年に「Dear God」という美しいヒップホップソングを作っていますが、それは、わざと傷のついた古いレコードを雑音と共に反復させたものでした。


マッドリブ - ディア・ゴッド



「神は好きだけど主体はオレ」という精神がよく出た曲だと思います。
最近もっともよく聞く曲です。


現在のワタクシの仮定としての考えとしましては、次の第6の夜にはあらゆる文化から「神が消える」ということかもしれません。


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posted by noffy at 02:43 | 人類の未来