2009年10月11日

大阪ショック2 - 生物と生物の平等



今朝方、異常に長い記事をアップしたばかりですが、気づいたら、またナンカ長いのを書いていました。書いちゃっていたのでアップします。昨日の内容とは全然関係ないですが、同じ「宇宙戦争」からの話ですので、連続したタイトルとしました。

今回の話とはちょっと関係ないですが、私は「勇気をもらう」という言葉が相当嫌いで、テレビなどで聞く度にうんざりしていたのですが、宇宙戦争での大阪人には本当に勇気をもらいましたね。私は日本にあの破壊マシンが登場したら、絶対にみんな逃げ惑うばかりだと思っていたのですよ。

しかし、大阪人は違った。

方法はともかく、多分、民衆のチカラで、世界で初めて破壊マシンのトライポッドを倒すことに成功したわけで、トライポッドを倒した具体的な方法はわからないですが(返事来ないでしょうけど、スピルバーグにメールを出してみようかと思っています)、あるいは「倒した」のではなく、「かめへん、かめへん」と言いながらジワジワと懐柔して「仲間になってしまった」のかもしれません。

血なまぐさいことなしに、「宇宙戦争は大阪では無事和解へ」という方向だった可能性もあります。

まあ、それはともかく、実は今日は何となく気分が不安で、まさか宇宙戦争を見て恐くなったわけではないし、どうもなんかモヤモヤとしていました。そして、さっきそのモヤモヤの原因というか、生き方のひとつの方向性の答えがわかったのです。

それは「これから(一生)肉をあまり食べないようにしようかな」というものです。

唐突に思われるかもしれませんが、これは「宇宙戦争」の原作にある、

仮に火星人が同じ気持ちで我々に戦いを挑んできた場合、それに文句を付けられるほど、我々は自分たちよりも弱い他者に対して慈悲深かったであろうか?


の問いかけに考え込んでしまったということがキッカケです。

スピルバーグの「宇宙戦争」では、相手の火星人はとにかく強いのですが、それよりも特筆するべきはそのムチャクチャさで、破壊は手当たり次第だし、人間を食糧にしている感じもするし、もうムチャクチャに悪いわけなのですよ。

「こいつら人間じゃねえ」

といっても、確かに人間じゃないわけですので、まさに非人間なんですが、この冷徹な戦いぶりを見ていて、「地球の家畜もおんなじような目で人間を見ているのだろうか」という気持ちになったのです。

「どうして人間はこんなに自分たちを無感情に殺すことができるのだろう」と、動物たちは考えているのではないかと。映画「宇宙戦争」で、人々が恐怖で逃げ回っていたのと同様の気持ちで柵の中にいるのではないのだろうかと。

「こいつら人間は気が狂っている存在なのだ」と。


blood-3.jpg

▲ エイリアンが人間の体液とか吸うから風景も全部血で染まっちゃいます。


ちなみに、私はベジタリアンになろうなんて気はまったくなく、もともと菜食主義にあらわされるような、何とか「主義」というのは好きではないのです。「主義」という言葉がこの世から消えればいいと思っています(多分消えると思います)。

そういう「何々主義」になりたいということではなく、「いろいろと他のものに思いを馳せるように努力したいな」という程度の軽い話です。


私の知り合いで若い時に牛の屠殺のバイトをしていた人がいます。
これらの仕事は日本では一種の特殊職で、誰でもできるわけではないのですが、彼は近くに住んでいたその一家と親しくなり、「給料がものすごくいいからやってみるかい?」と言われてしばらく屠殺を手伝っていました。
彼が大学生の時ですから、25年くらい前でしょうかね。

とても興味があったので、結構詳しく彼から聞きましたが、思い返してみれば、そこでの「牛を殺して肉にしていく過程」というのは、「宇宙戦争」の中で火星人が地球人に対して行っていたことと大差ないことです。これはもちろん、屠殺している人たちの問題でもないし、「牛を殺して食べるのなんて可哀想だ」という感情論でもないです。

今になって気づいたのはひどい話ですが、「私たち一般の人々の他の動物に対しての想像力の欠如」というのは感じますね。ウェルズの言葉の「それに文句を付けられるほど、我々は自分たちよりも弱い他者に対して慈悲深かったであろうか?」が重くのしかかります。

そして、もうひとつ、たまに引用させていただくコルマン博士の論文


(次の時代からは)われわれ人間は、地球環境や地球上に存在するあらゆるものを、これまでのように左脳の計算によっていかようにでも収奪が許される生命のない単なる物質として考えることはできなくなる。


という部分ともリンクすることです。

 > 地球環境や地球上に存在するあらゆるもの

という「あらゆるもの」というのはまさに「あらゆるもの」なのだから、そこをどこまで思うことができるか。

私がベジタリアンのような人のことに少し偏見を持っているのは、「これは○○が入っているから食べない」というような光景を今まで何度か見てきているというのはあります。体が受付けないのなら仕方ないことですが、そうではなく、すでに出ている料理に対して「主義で要らない」と言うような人たち。

だってそこにはもう料理が出てきているのですよ。

その皿の上にはすでに死んだ動物の死体、収穫された野菜、作ってくれた料理人の労力がすでにあるわけで、「だったらまず最初に言っとけ」と思ったことが何度かあります。

「主義」が自己満足のためとか「自分が良くなるためだけ」なら、そんな「主義」は一体何のためにあるのだろうとは昔から思っていました。

殺されて、食べられもせずに捨てられる肉というものは存在するわけで、これはその肉に慈悲深くあれというわけではなく、「そういうことを想像する生き方」という自分たち自身に対しての想像力の勉強の必要性のことでもあります。

まあ、そんなわけで、少しずつ肉から離れようかなあ、くらいには思っています。しかしまあ、付き合いがあったり、焼き鳥屋のオヤジの知り合いなども同じ街にはいるわけで、角が立っちゃいけないので、「こっそりと」ですね。

昨日、ノイズ音楽家として紹介した秋田昌美さんはわたしの菜食生活なんて本も出しているヴィーガン(完全菜食主義)ですが、アマゾンを見ると、「世界的に活躍するミュージシャンが始めた、都会でできる菜食ライフ」なんて紹介がされてあって、これでは素敵なジャズでもやっていそうな感じがしますが、世界的に有名なのは事実ですが、やっているのはこういう音楽です。(音量注意)




基本的にこういう特別な表現をやっている人には、「なんか主義」の人が多くて、そのあたりは付き合いにくい部分もある人も多いですが(秋田さんがどんな人かは私は知りません)、興味深くはあります。

ベジタリアニズムを見ますと、「インドでは国民の31%がベジタリアンである」とのことで、食文化とも関係がありそうですね。

日本でも明治時代以前に統計を取れば、「ベジタリアニズム」などと「主義(ism)」の付かない形で、多くがそうだったのではないでしょうか。つまり、「食べたくても肉も魚も卵もない」と。

ご飯を味噌や塩漬けの野菜(漬けもの)などで食べる。
そして、この食生活は日本人なら基本的には全然粗末にも貧乏にも見えないのではないでしょうかね。


思えば、今回のことを気づいたのは「宇宙戦争」を見たのがキッカケではありましたが、実はここに至る最近、あまり肉を食べなくなっていたのです。「まあ、痩せるし」くらいの理由ですが。

くどいですが、決してベジタリアンになりたいわけでもないし、肉を食べることが悪いと思っているわけでもないです。

タバコをやめた時も、「完全にやめることなんてできるわけないんだし、適当に」と、部屋のタバコも今もそのまま戸棚にありますし、別にこれから先も「吸わないで過ごしてやる」とも思っていませんが、3年前にやめてから一本も吸っていません。
今でも人のタバコの煙は好きですし、タバコが特別に体に悪いとも思っていません。

私は意志が弱いので、こうやって逃げ道を作りつつじゃないと、何事も達成できないのですよ。

「タバコはいつでも吸えるのだから今吸わなくてもいい」と3年過ぎたわけで、肉とか野菜とかの問題もその程度の認識でいいと自分では思っています。


ちなみに、組織だった環境保護活動などにも相変わらず全然興味はありません。
たとえばグリーンピースのような環境活動家が陥っている最大の過ちは、組織の怪しさとか、行動のラジカルさにあるのではなくて、コルマン博士の言う、


地球環境や地球上に存在するあらゆるものを、いかようにでも収奪が許される生命のない単なる物質として考えることはできなくなる。



を全然実践できていないことにあると思っています。

「○○を守るためなら××は仕方ない」というのは、結果的に「優劣がついている」わけで、ウェルズの言う「我々は自分たちよりも弱い他者に対して慈悲深かったであろうか?」というところにも反します。

「動物はエライから守る。人間は悪いからどうでもいい」 

   ↑  ↓

「人間はエライから動物を殺しても食べてもいい」



優劣をつけてしまうと、これのどちらかに行くかだけの選択となってしまうのではないでしょうか。


考えれば、この1年は何となくこのあたりの考えに到達するための1年だったのかもしれません。

その中で、WebBot やコルマン博士の論文、そして、マヤ文明や宇宙のことやサイクルのことなどの様々な有益な話を知ることができました。それにしても、それらを一気に知ることができたのも、ヤスさんのブログのお陰で、まったく感謝の言葉が見つからないです。

そして、「宇宙戦争」に出会わなかったら、「生物同士の平等の大切さ」ということを考えることもしなかったかもしれません。それは原作だけではなく、スピルバーグ版の強烈な殺戮描写が伴わなければ気づかなかったことだと思います。もともとは、150円という値段で売っていたから「宇宙戦争」を買ったわけですから、デフレにも感謝しなければなりません。

そして、何よりも映画の中でトライポッドを倒した大阪人。
彼らはもしかしたら、「倒した」のではなく、勝手に宇宙戦争を終結させていた可能性があります。そして、いち早く、「生物同士の平等」に目覚めて、それをエイリアンに訴えてみたのかもしれません。

「わしら平等やないか。な? エイリアンはん」

と。

そして、エイリアンもそのことに気づいて、あとは大阪を観光していたのかもしれません。

「街の建物が低いよねえ」とか言いながらも大阪観光を楽しんだり、飲みに行ったりしたのかもしれません。「地球よりはるかに文明が進んでいる星の人たちと最強の大阪人の出会い」の顛末はこんな感じだったかもしれないと今は思います。


mars-alian.jpg

▲ 地球の細菌が原因で死んでしまった「宇宙戦争」のエイリアン。これはアメリカを攻略していた方ですが、大阪のエイリアンの方は同じ頃には、大阪の細菌にも順応して明石焼きとか食べていたかも知れません。「関西弁もええな」とか言いながら。


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posted by noffy at 23:00 | 現世人類としての最期に