2009年05月20日

クリフ・ハイの忠告

昨日、家族で夕飯を食べている時(夕飯はたいていお酒を飲んでるだけですが)、NHKのニュースで真面目な顔でインフルエンザかなんかのことを語っている解説員の顔を見ていたら急に笑いが止まらなくなってしまい、奥様に「何がおかしいの?」と言われましたが、自分でもよくわからず、今朝考えて「もしかしたら・・・」と気づきました。「結局、オレたちゃモンティパイソンみたいな世の中にずっと生きてたんじゃないのか」と。 (二十代の頃、部屋に引きこもって1カ月ほどモンティパイソンのビデオだけ見て過ごしていた時期があります)

世の中なんてすべてそんなものだったのではないかと。

そんな社会でのニュースだとか報道だとかを真面目に見ていたり、考えていた自分の人生が可笑しくなってしまったのかもしれません。



サバイバルの方法論

さて、それはとともかく、先週、ヤスの備忘録に掲載されたコルマン博士の論文を読んでから実にサバサバとした気分になり、楽しい気分になるためにいろいろと今のうちにやっておこうと毎日いろいろとやっています。

部屋の模様替えや、生涯自分が聴いてきた音楽をまとめてCD化したり(半年くらいかかりそうであります)、好きな映画の好きなシーンをクリップして保存したり、納豆の作り方を勉強したり、昔知り合いだったクラブ嬢に連絡したり(それは何のために?)、いろいろと忙しくてブログを更新できなかったのですが、またしても、ヤスの備忘録で、今度はWebBot の最新版が告知されていました。

その内容はともかく、大きな出来事としてはクリフ・ハイたちによる WebBot の定期配信が今回で最後になるのです。

WebBot 自体はこれからも何ヶ月かに一度の割合では配信されるようですが、少なくともこれまでのような毎週出るという形でのレポートは終了となるそうです。その理由は簡単にいうと、クリフ・ハイたち自らが「地獄の夏とその後に向けての本格的な準備に入るため」のようで、つまり、大変な手間のかかる WebBot のデータ解析を毎週行うことは不可能になったということらしいです。

いよいよそういう時期が来たか・・・と思うと同時に、実は私自身も最近またそのことについて考えるようにはなっていました。

「また最近」というのは、実はここ1カ月2ヶ月ほどはそういうこと、つまりサバイバル的なことはもう全然考えないようになっていたのです。食糧備蓄などもすでにしていませんし(これにはスペース的な問題もありますが)、移住の件についても冬にいくつか田舎の物件と連絡をつけて以来、保留にしたままです。

それは最近の私の思考の流れ、つまり「人類は絶滅した方がいい」というような考えに基づいているような部分もあるかとは思いますが、しかし、世にあるいかなる予想でも人類は絶滅(絶滅というのは完全に滅すること)しないとする予測の方が多いのです。

まあ、そういう私の理想(?)の問題はともかくとして、現実的に「サバイバルについての具体的な事案について考えることを断念しなければならなかった理由」もあります。

それは「どこに行ってどういう生活をすればサバイバルとなりうるか、という指標がなくなってきている」からです。それはこの2〜3カ月で私にも理解できてきました。


たとえば、LEAP2020やストラトフォーなどが分析している地政学的な予測と、WebBot や各種予言などのオカルト的な予測双方から今後起こり得ることを漠然と列挙してみますと、

・経済危機(金融システムの崩壊、市場の崩壊、貨幣システムの崩壊)
・戦争(内戦暴動含む)
・あらゆる理由による食糧危機
・疫病の蔓延
・医療システムの崩壊
・環境の異変(地震、火山の噴火、海水面の上昇)
・太陽の異常(気温の上下、太陽嵐の影響など地球環境の激変)


などとなります。

さて、このようなことが起こるかもしれないとしている中で「具体的なサバイバルの方法は?」と考えてわかるわけがない。

最近提唱されているいろいろな方法で、上のすべてに対応するものがあるのかというと、どうも難しくて、例えば、田舎への移住、医薬品や食糧の備蓄、自己軍備、投資の現物への鞍替え、自給自足・・・。

それはすべて一般的なライフスタイルとしてはとても素晴らしいとは思うのですが、「生き残るため」となると今では若干、それだけでは難しいと考えざるを得なくて、しかも、予測以上に自然環境の激変は早いペースで進んでいるような気がします。


とはいえ、何の手も打たないというのも何かアレですので、私なりに最近考えていることを少し書いておきます。なお、この「生き残るほう」でのサバイバルについて、ひとつの指標となるものがあります。また WebBot なのですが、1月18日に配信されたものの中にヒントがあると思っています。

WebBot の ALTA1109 に、当時とてもショックを受けた以下の記述があります。

(ここから転載)
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・2012年前後には人口の大移動が世界的に発生し、人々は洞窟のような場所に住み、ゴミをあさることが生活を維持するための主要な手段となるとのデータがある。

・ この他に2012年頃の時代は「惨めさ」「通常の状態に復帰できない」「通常からの逸脱」「突然の欠乏」 「大量の雨雲と雨」「突風」「土砂崩れ」などのキーワードの感情値が高い。


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(転載ここまで)


私がショックを受けたのは「洞窟」という単語です。

単なる経済破綻や物流の停止、食糧危機、戦争、地震、火山の噴火、洪水、海水面の上昇、等なら洞窟に住むまでの必要はないはずです。たとえば、人里離れた山奥にある家でいい。
あるいは大洋上のボートの上などでの生活でいいはずです。

しかし、そうではなく、「洞窟」とあるのです。洞窟の奥深くにいなければ避けられないもの、というのを考えると、何となく想像できたりしたのでした。

今はキチンと書けないので今度書きますが、太陽からの突風などの中には時速100km以上で地球の表面を叩くものも考えられるようで、環境の異変が究極的なところにまで発展すると、地球というより「地表」のほとんどは危険な場所になる、ということもあったりするのかもしれません。

なので、現段階ではまずは住む場所からしてお手上げのような感じもしないでもないのですが、しかし、そのクリフ・ハイは今回の定期配信の最後となる WebBot をこういう文章でしめています。


「人は二つに一つの選択しかない。自らの運命に出会うために未来へと自らが乗り出してゆくのか、それとも何もしないで宿命に踏み倒されるのを待つのかだ」


どちらかを選択しなければならない時は近づいているのかもしれません。

なお、今後考えられるいろいろな状況を踏まえた上で、これからのサバイバルを本気で考えられている方は、次の点を考慮されてもいいのではないかと思います。


・食糧の確保はどこでするか(世界のすべてで農作も植物もダメになった場合や海に近づけなくなった場合、あるいは海に生物がいなくなった場合にどうするか)

・住んでいる場所の確認(地震と津波に対応できるか。空から熱やダウンバーストなどの直撃を受けた時に耐えたり逃げる場所があるか。電力供給が途絶えた時に耐えられる環境)

・疫病に耐えられる強い体作り(方法は不明)

の3点です。
あと、物流とエネルギーの供給もストップするかもしれませんので、「徒歩で生きていける場所」というのも。

これらは数年単位で考えるならば生活する上で最低限必要なことのような気もします。

前回の記事でも触れましたが、何年か耐えれば、地上に新しい経済とライフスタイルができあがり、人々はまた新しい環境と経済の中で新しい生き方を開始できるのかもしれません。それが環境に反しないものであるならば、ぜひ多くの人に生き残ってもらいたいと思います。

まあ、私に関しては何度か書いたように、もうそれは(生き残るのは)どちらでもいいですので(笑)、あと数年と区切られた人生をいかに楽しく充実して生きるかにシフトしています。こういう生き方もそれはそれでいいのかと思うのですが・・・(精神が充実するのは大切なこと)。



クリフ・ハイの警告


ちなみに、今回のWebBotの、私の好きなクリフ・ハイのエッセイでは、将来に対してある種の希望を抱く人にとっては冷徹にもとれる言い方をしている箇所があります。

「ここ数年のこと」と断りながらも、2012年までに「人間の意志で現実を変えられることもないし、地球外生物が人間を救いに来る可能性もほとんどない。アセンションとは結局単に死ぬことでしかない」として(これらのことを「幻想」とまで書いています)、


(それらの)可能性がほとんどないのであれば、これからはわれわれ一人ひとりが、人々に勇気を与え人々を正しく導くことができるような本当の意味のよい人間になる努力をしなければならないだろう。


と書いています。

つまり、現実は現実のまま進んでいき、2012年が近づいても特別に不思議だったり奇跡的だったりすることは多分起きないのだから、「人間の社会をちゃんと変えていける正しい心の在り方の人間になろう」と言っているのです。

まるで道徳の教科書のような結びですが、これは最近の私の心境とも実は似ているのです。つまり、「ちゃんとした心の人間になりたい。あるいはみんなでなれればいいのになあ」ということです。

厳しい経済、食糧のない世の中、蔓延する疫病、戦争、死体の山、といった、もしかしたらこれから数年のうちに私たちが経験するかもしれないことの中で、それらを何とかする、あるいは対応するには「あとは、人々の心の問題だけではないのか」と思ったりするのです。

人間の心がちゃんとしていても、食べ物は多分減りっぱなしでしょうし、疫病の蔓延も止まりようがないと思います。
このあたりのことは、どういう風に言っていいのかよくわからないのですが、たとえば、「心の持ち方とモノの見方の関係」について、下のような例えではどうでしょうか。



こんなことがありました


ふたりの人物が別々に海外旅行に行ったとします。どこの国でもいいですが、同じような場所に同じような状態で別々に行って、同じような経験をして帰ってきたふたり。(AさんとBさんとします)

Aさんが「食べ物はまずいわ、詐欺には合うわ、飛行機が遅れるわでさんざんだったよ。ツイてないよ。あんな国は二度と行かない」

と言ったとします。
そして、ほとんど同じ場所で同じ体験をしたBさんは、

「ものすごい変わった食べ物がたくさん食べられたし、外人の詐欺師なんていう珍しい人にも会えたし、飛行機が遅れたから予定外の場所も見ることができたよ。ツイてたなあ。面白い国だよねえ。住んでみたいなあ」

と言ったとします。

これは、傍目に見ると、Bさんはツイてた、Aさんはツイてない、というように判断してしまうと思うのですが、「同じ状況を説明しているふたり」ということに注意して下さい。ふたりが遭遇した境遇はまったく同じで上の言葉が出てきたと考えていただいてもいいかと思います。

実は上の状況はそのまんま私が、とても似たようなことを以前経験して、まあ、一応私はBさんの方に当たるのですが、知人が後にその国のその場所に旅行に行って同じような体験をして帰国した時にAさんのような発言となっていた、と。

私は妙な食べ物が溢れていて、詐欺師たちに拉致されそうになって(これに関しては本当におもしろい経験でしたのでいつか書けたらと)、交通が遅れまくったその国が面白くて面白くて仕方なかったのですが、人によってはそれはAさんにとっては心地よい環境ではなかったと。

(もちろん私も危険なことは嫌いですが、海外旅行というのは「日本では経験できないこと」を求めに行くことですから、日本で経験できないことがあればあるほど興奮します)

同じ目に遭ってこれだけ感じ方は違うのはどうしてかなあとその時(十年以上前)は思ったのですが、最近になって「考え方で世界は変わる」というような人の言葉がよく聞かれるようになりましたが、「あ、このことか」と。

というわけで、「等しくみんなに平等に見えるある風景と環境」があって、それをどう感じるかはその人それぞれなのかなあと。戦争と病気と食糧難で死体の山が築かれるような世の中を楽しいと感じるわけがないだろ! と思われる方もいるかと思いますが、まあ、そのあたりもこれからのいろいろな進化の中のひとつかもしれないと。


たとえば、これからいつかはともかく私たちは死にます。
それが50年後に寿命で死ぬのか、来年パンデミックで死ぬのか、来週交通事故で死ぬかはわかりません。しかし、いつか死にます。その時の、つまり「人間の死に対しての考え方や価値観を変えること」は十分に人間の進化ではないかと思うのです。

「うひょ、オレ死ぬじゃん、うひょひょひょ」

と楽しく死ねればいいなあ、なんて考えている私は・・・もうダメですね、こりゃ(笑)。
今日はこのあたりでやめておきます。


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posted by noffy at 11:28 | 人類の未来