
最近、神経症の話が多くて、特に先日の、
・森田正馬と老子とブッダと梶井基次郎のコアミックスが神経症治癒に対して示唆してくれるもの
2014年05月29日
という記事などは、神経症ではない方には、もうまるでなにが何やらわからないものだったと思いまして、何となく無意識で長々と書いてしまいまして、申し訳ないです。
ところで、あの記事を書いた後、下のような芸能記事を見ました。
・遠野なぎこさん、19年間苦しみ続けた摂食障害「大切なのは愛情でした」
産経デジタル IZA 2014.05.29

私自身は失礼ながら、この女優さんを存じ上げないのですが、タイトルで気になって読んでみますと、
「ああ、森田療法はこういうタイプの人によく効くんだよ」
と思いましたので、あえてふれさせていただきました。
記事の全体の内容としては、過食嘔吐(食べた後、自分で指などで吐き出す行為)が止まらなかったのが、今の旦那さんと出会って、それが止まったというもので、全体としては、ポジティブな記事です。
この記事の中で、下のような部分があります。
多分、編集した記者さん自身も、意味がよくわからずに、彼女が言っていたことをそのまま書いたのだと思いますが、こんな下りです。
泣きながら戸締まりや火の元を確認して、家を出るのに何時間もかけていたら死にたくなりますよ。ドライヤーから火が出るイメージが広がり、電源を抜いても家を出られません。
この中の、
> 泣きながら戸締まりや火の元を確認して
という部分が、「どういう意味か」ということが理解できれば、神経症の強迫性というものがどのようなものか、少しその片鱗が伺えるかもしれません。
この文脈をすっと読むと、
「何か他のこと(たとえば、過食や嘔吐や、家族関係など)でつらくて泣きながら戸締まりや火の元を確認している」
というようにスラスラと読まれてしまう方もいるかもしれないですが、そうではないのです。
戸締まりや火の元の確認を「やめられないから」泣いている
のです。
何度も何度も、場合によっては、10回 20回と確認する。
上の遠野なぎこさんという方は「何時間も」とおっしゃっているので、それ以上かもしれません。
流れとしてはこのような感じが一般的だと思います。
・戸締まりし、外出する。
・ドアを閉めた瞬間、元栓を閉めただろうかと心配になり、戻って確認する
・また、ドアを閉め、家なりマンションを出る。
・本当にカギをかけただろうか? という想いが湧く。一度何かの想いが湧くと、もう、それは行動するまでは収まらない。また家に戻る。
・カギはかかっている。ここで「元栓を閉めただろうか」と思う。
・でも、先ほど2回も確認したのだし、大丈夫だろうとカギをかけて外出する。
・駅まで向かう道で、元栓のことが頭の中でどんどん肥大してくる。
・「でも、大丈夫。2回も確認したのだから」と電車に乗る。
・元栓のことはさらに頭の中で肥大して、過呼吸などの体調の症状が出てきて、次の駅で降りる。
・そして、また自分の駅まで戻り、家に戻り、元栓も確認する。
・再び外出する。歩いていて、ふと「ベランダの鍵はどうだっただろう・・・」と思い出す。
キリがないですが、このループです。
症状のひどい人になると、これだけで1日が終わります。
あるいは上の過程のどこかで、過呼吸やパニックを起こして倒れたりする人も、わりと多いと思います。
このような「傾向を持つ人」は、病的に発症していない人を含めれば、日本に数百万人はいると思います。これは、神経科や心療内科でもらうことのできる薬でもある程度の対症療法としては効果があります。
しかし、「根本的」に改善する方法もキッカケも「いまだにわかっていません」。
改善するキッカケがわからないということは、そのメカニズムもわかっていないということです。
私自身も子どもの頃から、かなりの強迫性を持っていまして、そして、場合により、「特定の症状が出る」ことはあったのです。たとえば、中学3年の時に、ある日、
「学校の椅子と自分の体が接触していることが不快で不快でたまらなくなった」
という時がありました。
授業中はずっと椅子に座っていなければならないのですから、もう、それは地獄のような時間でした。

・lookslikegooddesign
でも、その時は神経症なんて病名も知りませんでしたし、「オレのこの変な考え方は何だ?」と思いながらも、やや困ってはいたのですが、高校に入った時には、そんなことは忘れていました。
このように、ある特定の症状については、それは「気づいたら治っていた」ということも多いです。
でもまあ、結局、20歳過ぎにはパニック障害に至るわけで、そのまま何十年も過ぎているわけですから、「自分の根本」は何も変わっていなかったことにも今だから気づきます。
遠野なぎこさんという方は、今の旦那さんと出会ってからそれらが止まったというのなら、それが「治癒」のキッカケだったのだと思います。
しかし、これはよく俗に言われる「愛情云々」ということとは違うと考えます。
愛情以上にその男性と彼女の間に「治癒に関係する見えない何か」が潜んでいたことは十分にわかります。それだけに・・・まあ、知らない方ですけれど、「いい人と知り合って良かったなあ」と思います。
このあたりの「治癒に関係する見えない何か」というのは、今日の In Deep の、
・「気温 40度の5月」の光景が気になりつつ、聖書とクインビー博士と森田正馬博士の言葉から考える「この世」と「神の子である人間という概念」
2014年05月31日
で抜粋した森田正馬博士の学位論文『神経質の本態と療法』の以下の部分でも十分にわかることだと思います。
『神経質の本態と療法』第八章より
われわれの血行も、心の中に起こる感情や観念連想も、みな法性(ほっしょう)であって、常に必ず自然の法則に支配されている。
夢も偶然の思いつきも、忘却も、執着も、みな必ずそれに相応する事情があってはじめて、そのようになるのである。
頭痛、眩暈も、必ず起こるべくして起こる弥陀(みだ)の配剤であれば、煩悶、恐怖も必ずあるべくしてある自然法則の支配によるものである。
つまり、私たちは「見えざる自然法則の支配」のもとに生きているわけで、神経症が突然良くなることには、上にあるように、
> みな必ずそれに相応する事情があって
良くなったのですが、その具体的なものは何かというと、普通はよくわからない。
ただ、神経症は、
・良くなるキッカケもわからない
と同時に、
・理由がわからず悪化することもある
のも事実です。
ですので、一生、その「影」がつきまとうわけですけれど、私自身の場合としてですが、20歳過ぎに発症した神経症。それに対して、現時点までの結果として、
神経症になって良かったか悪かったか
と聞かれれば、「良い悪い」はさすがに答えようがないとはいえ、「その後に得たものの量はとてつもなく多かった」ということは言えます。
私の今に至る、たとえば今書いているようなブログやサイトなども含めて、この30年間ほどの私の人生は、神経症の発症があったからのものです。
それでなければ理解できない概念も多かった。
聖書も経典もまともに読んだこともないけれど、その「中心テーマ」が何となくわかるのも、前回の記事で書いた、神経症という病気自体が老子の言う、
「宇宙の本元すなわち真理を虚無と名づけ、無名と云う。しかもすでに無名という名目があっては、それはもはや本体ではない」
を人に理解させる病気だからだと思います。
確かにつらい時はすんげーつらかったですけどね。
でも、キュアとかヒール(共に治癒)の道は必ずありますし、今後、クレアでかどうかはわからないですけど、自分が「自分に対しての」一種のヒーラーでいられる分野はこれくらいですので、私に提示できることがあれば、書こうと思っています。