
▲ 20年くらい前に共に韓国に旅行した時の田中くん。外国には何度か一緒に行っています。現地では、お店に入るたびに、韓国語で「あれ(田中くん)はどこの国の人?」と訊かれたものでした。面倒なので、私はいつも「イラクから逃げてきた犯罪者」などと適当なことを言うと、意外と韓国の人たちは信じるのでした。当時のソウルの街は武装した兵士たちが数百メートルおきに配置され、また、常に街を巡廻していました。
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ウイルスの心意気
昨年の12月28日に、忘年会をおこなう予定でした。
ところが、その前日、私はウイルス性胃腸炎みたいなものになりまして、「こりゃあ酒は無理だ」と、忘年会は中止となりました。
そのこともあり、年明けの 2014年1月4日に、 30年来の知り合いのジローさんという人と、翌日の1月5日も含めて、ふたりで飲みました。
不思議なことに、ジローさんを含めて、その頃に一緒に劇団のようなものをやっていた知り合いたちは何年、何十年会わなくても、あまり月日が流れる感覚が生じません。
いつでも「ついこの間会ったような気がする」という感じがします。
放っておくと、10年、20年会わないままでいる人たちも多いですが、会うと「この間、会ったよね」と思ってしまうのでした。
それはともかく、その時に、突然、 In Deep の「地球サイズの黒点を眺めながら「必ず今年終わるこの世」を神(のようなもの)に誓って」でふれた、田中くんの話になり、「あれもこれも」といろいろと思い出しては大笑いしていました。そして、 1月 5日の夜にジローさんは東京の自宅へと帰りました。
翌日 1月 6日、今度は私がジローさんに電話をすることになりました。
ジロ 「オカ? どした?」
私 「田中くん、亡くなったって」
ジロ 「・・・え?」
私がジローさんとバカ話をしている時に、田中くんはすでに故人だったのです。
その後知ったことですが、田中くんは昨年の 12月 26日に亡くなっていたので、浮かれて忘年会などしていたら、彼の死を知らないまま私たちはドンチャン騒ぎをしていたところでした。
かかったことのないようなウイルス性胃腸炎などになって厄介がっていたものですが、今にして思えば、ウイルスの活躍はギリギリのところで私の心情的な崩壊を食い止めてくれていたのでした。
ちなみに、田中くんは私たちの劇団のようなものに所属していたわけでもないし、そもそも表現活動とは無縁の人でした。東京の中堅出版社で二十代から、ある雑誌の編集長をつとめていた人でした。
しかし、その劇団のような集団や、あるいは私個人と田中くんの関わりや思い出はここに書いても無意味に長くなり、それは意味のあることでもないですのでふれません。いずれにしても、他にも彼にお世話になった人は多いです。
死ぬとその人は死者になる
田中くんと最後に会ったのは、7年前です。
どうして年月を正確に覚えているかというと、その年に私は入院したからです。田中くんは奥さん(のような人)と、そのお見舞いに来てくれていたのでした。
しかし、7年という歳月がどうもその時間の流れとして感じられません。
告別式で、棺の中の亡くなった田中くんの顔を見ていても、「やっぱり、この間会った気がする」と思っていました。
知り合いの少ない私の、数少ない同胞「的」な存在のひとりではありました。
私は知り合いを友人とか友だちというように呼んだことはないし、活動家であるわけでもないから、「同志」でもないし、要するに「知り合い」という言い方しかできないわけですが、その数人の同志的な感覚には、一種の戦友のような響きも含まれているかもしれません。
そして、ずっとそのままだろうなと思っていました。
何も変わらないというように「油断」していたんでしょうね。
「人が死ぬと、その人が死者になるという大きな変化が訪れる」
という当然のことに対して油断していたんです。
私もいつかそうなるし、誰でもそうなるのですけれど、そんな当然のことまで忘れていたもののようでした。
その理由のひとつとしては、やはり、周囲が誰も死んでいなかったから、ということはあるかもしれません。
以前、
・「価値観の社会的不適合者」だった元少年少女たちの前にそびえ立つ「時間の止まった壁」
2013年11月30日
という記事で、1980年代の文章家であり、ミュージシャンだった山崎春美という人の、『天國のをりものが: 山崎春美著作集1976-2013
『天國のをりものが』から抜粋します。
タコ『セカンド』ブックレット 2010年 山崎春美著 より
たくさん死んだ
タコの一枚目を出した直後に
ピナコテカの渡辺さんが亡くなり
ロリータ順子が死に
篠田昌美も死んだ
タコはライブする集団だったから
メンバーはたくさんいる
角谷美和夫が死んで
シンタロウが死に
タコではないけど アケミも死んだ
最初のピナコテカのオムニバスには
見澤真之介(隅田川乱一)がいた
タコの「背骨」だった彼は
一九九八年に亡くなった
三条通も死に
好機タツオが死に
あるいは、金子寿徳が死んだ
やがて 山本土壺が死に
大里俊晴も死んだ
たくさん死んだ
タコの一枚目を出した直後に
ピナコテカの渡辺さんが亡くなり
ロリータ順子が死に
篠田昌美も死んだ
タコはライブする集団だったから
メンバーはたくさんいる
角谷美和夫が死んで
シンタロウが死に
タコではないけど アケミも死んだ
最初のピナコテカのオムニバスには
見澤真之介(隅田川乱一)がいた
タコの「背骨」だった彼は
一九九八年に亡くなった
三条通も死に
好機タツオが死に
あるいは、金子寿徳が死んだ
やがて 山本土壺が死に
大里俊晴も死んだ
以上は、固有名詞がまるでわからない部分もあるでしょうけれど、それはともかく、このような周囲がどんどんと死んでいく状況を文章で読んでも、「何だかスゲーな」とは思うものの、自分に投影して考えることは無理だったのですね。

▲ 上に出てくる中のロリータ順子、こと篠崎順子さん。1980年前半のアンダーグラウンド音楽界では、戸川純と人気を二部した歌手。1987年に風邪による衰弱などで死去。享年 25歳。
でも、今回、田中くんの死で思ったのは「死はひとりでも 10人でも同じ」という「死の重さの無重力性」でした。つまり、人の数と人の死の重さが比例するわけではないと。
ひとりでも重い。
10人でも重い。
100万人だと・・・むしろ軽くなったり?(まさか)
経験のない涙
ところで、田中くんの告別式では、くしくも私は、この山崎春美が、彼の古くからの知り合いである大里俊晴という人の葬儀の式で陥ってしまった状況と同じようなことになってしまいました。
その時の山崎春美の様子を彼の文章から抜粋します。
ヤマザキハルミの懺悔!ザンゲ!ゲゲケのThank Gay(ざんげ!)
「第1の罪 憤怒」 2013年より
通夜式は、お寺を朝まで借りていた。ご挨拶して仏前に座ると、ぽろぽろと涙が出てきて止まらなくなった。自分でも初めての体験で、どうなっているのかわからない。涙が止まらないまま、「ハルミ」と呼ぶ声には反応していた。横から見ていた佐内順一郎が、「あれ? ハルミ泣いてる? ええ。泣くかなあ?」みたいなことを言いかけたときだった。奥のほうから妻の恵子さんが、「あ、ハルミちゃんが来てくれた!」と、笑いながらこちらに来たので、顔を上げて恵子さんを見るなり、わっとなって二人抱き合って泣いた。
それこそ我慢していたすべてが堰を切ったのだろう。
「第1の罪 憤怒」 2013年より
通夜式は、お寺を朝まで借りていた。ご挨拶して仏前に座ると、ぽろぽろと涙が出てきて止まらなくなった。自分でも初めての体験で、どうなっているのかわからない。涙が止まらないまま、「ハルミ」と呼ぶ声には反応していた。横から見ていた佐内順一郎が、「あれ? ハルミ泣いてる? ええ。泣くかなあ?」みたいなことを言いかけたときだった。奥のほうから妻の恵子さんが、「あ、ハルミちゃんが来てくれた!」と、笑いながらこちらに来たので、顔を上げて恵子さんを見るなり、わっとなって二人抱き合って泣いた。
それこそ我慢していたすべてが堰を切ったのだろう。
これを読んだ時は、「あの山崎春美が?」と思ったものでしたが、しかし、自分が経験すると、なるほどそんなものなのかもしれないと思います。
生きているものの責任? 義務? いや、自分も「未来の死」だから
そういや、作家の井上光晴の姿を追った、今ではカルト扱いされている『全身小説家
その後の NHK のドキュメンタリー『埴谷雄高・独白「死霊」の世界』の中では、自分よりも遙かに年下の井上光晴の葬儀に出席した時の埴谷さんの姿が収められています。

▲ NHK ETV 特集『埴谷雄高 独白「死霊」の世界』(1995年)より。
埴谷さんは「生きているものは、みな死んだものの責任を負っている」として、死者からの精神のリレーをおこなう義務があると言ったりしていましたが、義務かどうかは別として、確かに人が死ぬと、「自分が生きている意味」をいつもより考えるところはあるようです。
責任を負っているという重い考えではなくとも、自然とそうなります。
ああそうだ。
In Deep の「汚れた血も悪くはないと考えていた 2013年の終わりに」の中で、映画『仁義なき戦い』と自分の関係みたいなことを書いたようなことがありました。
この『仁義なき戦い』の中の完結編( 1974年)という作品では、菅原文太演じる主役(実在した美能幸三という人がモデル)が、小林旭演じる敵(実在した服部武という人がモデル)と共に、ヤクザ社会から足を洗い、カタギになることが決まった際、小林旭が菅原文太に、「ワシらの時代は終わったんじゃけ、落ち着いたら一杯飲まんか」と話しかけるシーンがあります。
以下、こんなやりとりとなります。
菅原文太 「そっちとは飲まん」
小林旭 「何でじゃ」
菅原文太 「・・・死んだもんに・・・済まんけえの」

▲ 『仁義なき戦い 完結編』より上の台詞の場面。左が菅原文太、右の眼鏡が小林旭。
前衛音楽家も形而上小説家も伝説のアウトローも、みんな「死者への責任」の中で生きていたというような、つながりを見たような見ないような。
ちなみに、田中くんが亡くなったのは昨年の暮れで、私が 1月 6日に知るまで 10日間以上あったわけですが、その間にはまったく様々な不自然な現象が起きていました。
そのことについて、私自身、非常にいぶかしく思っていたのですが、田中くんの最期の様子を聞いた時には、そりゃ、音が鳴ったり、何かが飛んだり、自然と動いたりもするわな・・・と、しみじみと思ったものでした。
葬儀は下のメンツの中の4人で行ったんですが、これがずいぶん前の画像だと思うと、月日が 7年でも、20年でも・・・ 50年とかでも、あんまり関係ないかも。

▲ 20年くらい前に、海外公演用に作成した後、公演が流れ、ウェブサイトに転用した画像。今の私は当時より体重は30パーセント増(当社比)。
田中くんは、最盛時には体重が120キロある大男でした。
長髪でヒゲも伸ばし邦題で、目立つ人でした。
立てば芍薬
座れば牡丹
歩く姿は百合の花
という表見がありますが、田中くんは、
立てば麻原彰晃
座ればブルーザー・ブロディ
歩く姿はアルカイダのナンバー2
というようなルックスの人でした。

▲ 1988年に亡くなったアメリカの伝説のプロレスラー、ブルーザー・ブロディ。若い時の田中くんはほとんどこれとほぼそっくりでした。
しかし、田中くんは東京の品格の高い家の長男として生まれて育てられた、とても上品な男性でした。
いっぽうで、北海道のテキヤの末裔という品格の悪い生まれをした私は、
立てば地蔵
座れば金正日
歩く姿はキンドーさん
といつも言われていました。

▲ 私が似ていると言われていた人々。過去記事「ゼロへの希求」より。
まあ・・・順番、順番。
アセらなくてもアセっても、今この世にいる全員はいつか死ぬんだから。