・「生命発祥の要因は宇宙からの彗星によるもの」という学説が確定しつつある中でも「幻想の自由」の苦悩からは逃げられない
2013年09月18日
の中で途中で書いていることは何だか支離滅裂になっているわけですけれど、ああういうことを発作的に書きたくなるっていうのも、要するに、最近の世の中というのか、自分がいる環境というのか、そういうものに対して最近とても懐疑的、ということが始まりなんですけれど、しかし、まあ・・・これは今に始まったことではないのですね。
本当に最初の頃から辿れば、小児ぜんそくで寝たきりで布団から天井ばかり見ていた3、4歳の頃からなのかもしれないですけれど、決定的になったのは、20代の時に不安神経症と共にパニック障害になったことだったことは間違いないです。
まあ、そりゃ、なっていなかったほうが楽だったのは間違いないんですけれど。パニック障害は地獄のような病気ですが、それがなければ今の自分は多分ないという意味では「困った心の主導者」とでもいうのか。
シンクロニシティに関して、自分を見ていなかった私
話は飛びますけれど、今、多くの人が生きることに自信がなくなっているのは、「自分自身の中でのシンクロニシティ」に確証がなくなっているからのような気がすることがあります。
まあ、私なんかも 40歳もはるかに越えてからはじめて知った、パンスペルミア説だとか、エメラルド・タブレットだとか、要するに、ブログに出てくるほとんどの知識はこの3年くらいの間に知ったようなものばかりですが、しかし、それらはきっと生まれた時から私が求めていた知識であったとも思います。
「3歳→20歳→現在」と、実は一本の「自分の中のシンクロニシティ」が続いていたんだと感じます。
それ(自分自身の中でのシンクロニシティ)は誰にでもあるはずで、しかも、生まれてから死ぬまでいつでも私たちはシンクロニシティと同居しているはずです。なぜなら、観念的なことは置いておいても、「物理的には時間というものは存在しない」という考えからは、人生は実は「線」というより、むしろ「点」であって、つまり一瞬の部分に集約されているものだと思うからです。
どの記事で引用したのか覚えていないのですが、ウェブボットのクリフ・ハイのエッセイの言葉を引用したことがありました。下の部分です。
ALTA レポート 1309 パート1 巻末エッセイより
ウェブ・ボット 2009年03月13日
宇宙はいくつかの層が折り重なって存在している。それぞれの層には独自な「現実」が存在しているので、その点からいえば宇宙は複数の現実の折り重なりとして存在しているといえる。(中略)
あなたが複数の現実が折り重なる宇宙の多次元構造に一度気づいたのならば、宇宙はシンクロニシティーという方法を介して、あなたに、さらに別な構造があること意識させようとする。
これはなにを示しているかというと、一度ものごとのシンクロニシティーの存在に気づいたならば、さらに多くのシンクロニシティーが起こるということなのだ。そうした連綿と続くシンクロニシティーの経験の後に、 われわれは宇宙の多次元的なフラクタル構造を発見するというわけだ。
シンクロニシティーは様々な形態で経験する。
それは一連の数として与えられ、同じ数の組み合わせを何度も経験し、次第にその意味が分かるという場合もあれば、若い頃から一連の系列の出来事を何度も経験するということもある。
という部分ですが、私はこれは「他者とのシンクロニシティ」と勝手に思いこんでいたのですが、それだけではないことに最近気付いたのです。
えーと・・・どうにも、話が混乱してきている感じもしますので、続きは次回に書ければと思います。
「どうせ意味も価値もない人生だから」と思っていた青春時代
ところで、前回の記事では、私の昔の演劇について、ちょっと書いたりしていたんですけれど、その演劇のようなものは、「人間の存在そのものに意味はあるのだろうか?」ということを知りたかったということもあります。
生き方とか人格とか人生ドラマとかではなく、「魂と共に生きる肉塊としての人間そのもの」の意味です。
限界まで自分を価値のない肉塊もどきの状態にまで追い込んで、それでも「自分に意味はあるのか」ということを知りたいということもあり、「死ぬギリギリまでやろうぜ」ということになったような感じだったのかもしれません。若かったですし、コワイことはあんまりなかったですから。
下の動画は私がやっていた劇団のようなものの大規模公演としては最後の作品のオープニングです。
そういえば、先週くらいにちょうど下の公演に出ている4人で飲んだんですけれど、なんだかんだと、この人たちとはもう 25年以上の付き合いとなっています。
self23 第一次活動ラスト公演 g.a.m.e / オープニング(1995年)
今から20年ほど前の公演ですが、架空上としての血統のある人物(日本での皇室の人たちのような)を守るために、生まれた時に戸籍を剥奪され、名前も国籍もない(つまり日本では存在しないのと同義)男たちが集められている「架空の場所」でのストーリーでした。
彼らは全員、ゴミのように殺されていくのですが、殺される時に「自分は人間だった」ということに初めて気づき、「自分が人間だったということだけが自分の価値だった」と知るようなことになるのですが、しかし、その時にはもう死んでいるのです。
今回も結局、支離滅裂な話となってしまいましたが、仕方ないのかもしれません。